毎週お世話になっている大阪府は三島郡にある水無瀬神宮境内から湧き出るお水。
離宮の水。
昭和60年に、唯一大阪府内で全国名水百選に選ばれたお水。
時間帯によっては30分程列に並ぶこともあり、それでも家族一同が好きなこともあり毎週列に並んでいます。
この日は5月の最終週でしたが、すでに茅の輪が設置されていました。
例年であれば6月30日に夏越し大祓が執り行われるのでしょうが、コロナ禍で一般参列は中止とのこと。
そもそも、水無瀬神宮のお水を頂くようになったのは遡ること一年前。
茨木市にある佐奈部神社の神主さんに、
『高槻市在住であれば水無瀬神宮さんにお参りに行かれたら良いですよ。』
とお声がけいただいたのが事の始まり。
まさか、それから毎週お水を汲みに行くことになろうとはその時は全く思いもせず、予期せぬご縁に今となっては感謝しかありません。
水道の蛇口をひねれば綺麗な水は途切れることなく溢れ、水を汲みにいかなくとも何の不便もないのですが、何故だか我が家のノースピリチュアルな主人が、お水を毎週汲みに行くことが義務であるかのごとく、週末の予定の中に必ず水無瀬神宮へのルートを組み込んできます(笑)
私の若干スピっ気に反して、ノースピな主人は『神社のお水だから』といった風ではなさそうですが。
それでも、何かはわらかないものの、何かに守られているような気はするらしく(阪神淡路大震災の時はスノボ、大阪北部地震の時は朝から家族で愛知県へと遊びに行っており、大難が小難になる人です。)、なんとなくお墓参りはしておこう、という気はあるようです。
気付けば家族で本格的にお参りさせて頂くようになって2年。
一人でお参りに行くようになって4年が経過しました。
なぜ神社が好きなのかはいまだに分かりませんが、電車の窓から眺める景色の中に、車の助手席から眺める景色の中に、明らかに鎮守の森だろうと思われる木々の一画を見つけると、居ても立ってもいられなく、何故だかその場に行ってみたいと小さい頃から感じていました。
今、その居ても立ってもいられないソワソワした気持ちだった日々を実行に移すことが出来て、その場を訪れることで様々な発見や気付きがあり、相変わらず見えたり聞こえたりはしませんが、その発見や気付きが本来の私の目的なのではないのかと、うっすらぼんやり感じています。
先日、お世話になっているお寺の庵主さんとの最近の会話の中で、
『見える聞こえるといった能力はなにも特殊な能力でもなく、目が見える、喋れるといった同じ機能の一つ。大事なのはそこではない。自身が努力して得た能力こそが大事。仕事で得た能力。日々の生活で培った家事育児。資格勉強をして得た知識や技能。それらは、自分が努力して得たスキル。そのスキルは無くなることはなく、必ずや自分の血肉となり、自身を育むもの。
何も努力せずに(見えないものが)見える・聞こえるは、機能の一つ。
そこに固執はしてはいけない。自分は特別なのではなく、そういった面があるだけだとそのまま受け入れること。えらいわけでも何でもない。』
と、小さい頃から見えて・聞こえてしまう庵主さんは、切々と仰っていました。
友達との話しの流れで神社に行くと話すと、『何かあるの?』とか、『そっち系?』と言われたりもし、私自身、良く分からないけれども行く流れになったり、行かなきゃならなくなったりで、ただそんなことを話すと更に妙な雰囲気になってしまうので、『なんか昔から好きやねん。』と、実際その通りなので嘘ではない返答をしています。
そんな中、つい最近初めてできた神社友達に、『また自転車でふらっとお参りに行く時は声かけて~♪』と誘ってもらったのですが、そんな時に限って神社センサー無反応(笑)
時が熟せば、また一人ふらっとお参りに行くこともあろうかとは思うのですが、どうやらまだその時ではないようで、おかげで家の掃除と断捨離が進んで仕方なく(笑)
外にばかり求めずに、まずは自分の足元(生活をする拠点)を見直しなさいということなのでしょう。
このままではお参りブログではなく、お掃除ブログになりそうです(笑)
良い週末をお過ごし下さい。