大伴と聞いて思いつくのは大伴家持。
そして、大伴家持といえば万葉集の編集者であり、百人一首にも出てくる歌人。
かささぎの 渡せる橋におく霜の
白きを見れば 夜ぞ更けにける
【現代語訳】
七夕の日、牽牛と織姫を逢わせるために、かささぎが翼を連ねて渡したという橋
天の川にちらばる霜のようにさえざえとした星の群れの白さを見ていると、夜もふけたのだなあと感じてしまうよ。
引用させて頂いたのは小倉山荘HP。
かささぎ橋は地元枚方市にある天の川にかかる橋。
そして、枚方市といえば機物神社のある交野市と同様七夕伝説発祥の地と言われています。
七夕は過ぎてしまいましたが、この記事を書いていた頃はちょうど七夕。
大伴神社に直接関係はありませんが、面白いので残しておくことにします。
さて、名前の大伴黒主ですが、大伴姓からてっきり同族なのかと思っていましたが、どうも調べていくと同じ大伴姓でも、大伴黒主と大伴家持は関係がなさそうです。(大伴黒主は大友黒主と記載されているものもありました。)
大伴黒主は渡来人の子孫にあたるようで、やはりこの一体は古墳群も多いことから、渡来人が携えてきた技術や産業によって大いに栄えた土地であったのではなかろうかと。
息子を追いかけます。
由緒書き
大伴黒主は大友皇子(弘文天皇)の皇子で大伴姓を賜ったと言う大友与多王の子孫と伝えられる。
大友の名は、当地の旧名滋賀郡大友郷に由来する。
大友氏はこの大友郷を本貫とする氏族で、黒主も滋賀郡司をつとめたことがあって、「滋賀の黒主」とも称されていた。また園城寺(三井寺)の神祠別当職をつとめた。
黒主は平安初期の代表的歌人で、いわゆる六歌仙の一人として知られている。
さざら浪 間もなき岸を洗ふめり なぎさよくば
君とまれかし
と歌って大いに賞賛されたと言う。晩年の黒主は志賀山中で幽栖したと伝えられ、没年は明かではない。
当社は没後、土地の人が小祠を建てて祀ったことに始まるという。
鴨長明は『無名抄』に、「志賀の郡に大道より少し入りて山際に、黒主の明神と申神います。是昔黒主が神になれる也。今に大伴の黒主の宮ある。」と記している。
【出典元】大伴黒主神社 大津市南志賀
お社の側に、こちらは由緒書きではなく立札がありました。
祭神の大供黒主公は、平安初期の歌人で、古今和歌集の「六歌仙」の一人。
志賀の郡司や、園城寺僧正も務め、晩年はこの志賀で暮らした。
ただ、同和歌集の序文に紀貫之が
「黒主はそのさまいやし。いわば薪の負える山人の花の陰に休めるが如し」
「志賀」では、薪を背負った老いた木こりに仕立て、山桜見物の臣下と問答している。
「菓子洗小町」では、同僚の小野小町に懲らしめられる悪役で登場する。
だが黒主はそんな「いやし男」でなかったことは、当神社の存在が何よりの証拠である。
謡曲史跡保存会
どちらの立札にも六歌仙が出てきました。
【六歌仙】
・在原業平
・僧正遍照(そうじょうへんじょう)
・文屋康秀(ふんやのやすひで)
・小野小町
・大友黒主(おおとものくろぬし)
・喜撰法師(きせんほうし)
大伴黒主は六歌仙のなかで唯一、百人一首に選出されていない歌人だそうで、時代に関係なく、実力があるからと言って必ずしも報われるわけではないということを感じてしまいます。
他に理由はあるかもしれませんが。。。
大伴神社も先程の皇子山神社同様、お社はこじんまりとしておりますが、
境内を勢いよく流れる水と、
(こちらの竈、先程の福皇子神社にも設置されており、お祭りの時に餅米を炊いてお餅を振舞われている、いた?のではなかろうかと勝手に想像。)
裏手にあるお社が素晴らしかった!
こちらのお社はお祀りされている神様の名前は分かりませんでしたが、お山(比叡山)を向いて拝む形になるのではないかと。
古墳といい、神社といい、お山といい、面白い1日でした。