シロンプトンでパンとお参りと

ブロンプトン(白)でふらりとお参り、そしてパン。

托鉢の僧侶へ喜捨をさせていただいたこと

駅で托鉢をされている僧侶を見かけました。

暑い中、ただひたすらにお経を唱えている姿に、一度は通り過ぎてしまったものの、戻ってお金を入れさせて頂きました。

 

その瞬間、気付けば僧侶の前で自然と手を合わせ、口から出た言葉は『ありがとうございます。』

それに呼応するかのように僧侶の方からの言葉は『感謝致します。』と。

 

何でしょうか。

たった一瞬の出来事でしたが、ありがたくて少し目が潤みました。

 

托鉢の僧侶にお目にかかったことはあまりなく、記憶をさかのぼってみれば、確か学生の頃よく遊びに行っていた京都は三条大橋で立たれていた姿がぼんやりと思い出されます。

 

その頃の托鉢のイメージは『寄付』だったのですが、最近読んだ本かネットで、托鉢の僧侶のお椀に入れるお金は寄付ではなく、お金を入れることによってお金からの執着を断ち切る修行になり、もちろん托鉢の僧侶にとっても修行になるだとか、そんな意味だったような気がします。

 

気になり調べてみました。

 

<托鉢とは?>

托鉢とは、僧侶(修行僧)が街を無心に歩き布施(ふせ)(喜捨(きしゃ))したい人が現れれば、ただそれを受け取る修行です。一見すると、街頭募金や訪問募金のように思われる方もいらっしゃるかと思いますが、そうではありません。托鉢は決して、街頭や駅前に立って道行く人に「布施」をお願いすることもなければ、戸別訪問で玄関を開けることもないのです。また、布施してくださった人に(感謝はしても)お礼は言いません。もし「お願い」をしたり「お礼」を言ってしまったら、それはご寄附・募金活動になってしまい托鉢ではなくなるからです。

また、托鉢と言うと僧侶の修行と思われがちですが、実は一般の方にとっても修行なのです。布施を受けた時にお唱えする偈文に『施(せ)財(ざい)の偈』があり、その中に「財法二施(ざいほうにせ)」とあるように、「財施(ざいせ)」と「法施(ほうせ)」、托鉢は「財施」(お布施)をする人も、「法施」(説法)をし、そのお布施を受ける僧侶もお互いが施し合う修行なのです。

財施をする人(檀信徒・一般の方)にとっては、自分の財産・金品・持ち物、いわゆる「浄財(じょうざい)」を手放す、執着(しゅうじゃく)を断つ修行です。「布施」のことを「喜捨」するとも言い、文字通り見返りを求めずに「喜んで捨てる」修行であり、功徳を積むことになります。

【出典元】『托鉢(たくはつ)』 - 大本山永平寺別院 長谷寺

 

私は執着の塊です。

 

『こうすべき』

『~しなければいけない』

『(自分の思う正論に対して反した場合の)怒り』

『相手を(自分が思うように)コントロールしようとする』

『お金への執着』

・・・。

 

書いてて嫌になってしまいますが、こうやって自分を客観的に見れるようになったのも少しは成長した証かと(笑)

 

よく言えば『こだわり』。

そのこだわりに囚われ過ぎると『執着』。

 

何事も間にある、

 

いい加減=良い加減=いい塩梅

 

が大切で、プラスにもマイナスにも触れ過ぎないゼロの状態を保つことが心の平穏に繋がるのではないかと。

 

喜捨をさせて頂くという、ありがたい修行を積ませて頂いたことに感謝です。

 

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