カルタ部に出席する娘と近江神宮で別れ、今日は私一人。
一路、三井寺へと自転車を走らせます。
今日は愛車のシロンプトンではなく、6段変速のミドンプトン。
3段変速のシロンプトンとは当たり前ですが走りが全く違います。
グングン進んで爽快!
娘と合流するまでの3時間。
どこまで回れるか、あれやこれやと最速ルートを頭で叩き出そうとしてしまいますが、回れなければまた次回お参りに来ればよいだけ。
ゆっくり、じっくりその時その瞬間に集中してお参りしようと思います。
受付で頂いた境内図を見ながら、まずは受付すぐそばにある釈迦堂からお参り。
お堂の中は撮影NGですので、外から見たお堂のみの写真です。
釈迦堂の手前に辨財天社。
案内板に
御本尊の辨財天は八臂像で鉾・剣・斧・鈷・輪・索弓・矢を執り能弁及び学問技芸の徳をそなえる女神である。また、人として無礎弁財を具足し福智を増益し延寿及び財宝を得しめる神として古くより崇拝されている。
とありますが、八臂像が分からず調べてみました。
<八臂辨財天とは?>
金光明最勝王経に説かれている一面八臂の弁天様です。
宝珠・宝棒・宝箭(矢)・宝刀・宝弓などを持っています。持ち物は時代や彫刻家の考えによって多少異なるようです。
※仏様の手を数えるときは臂(ひ)といいます。例えば顔が3つで手が6本のときは三面六臂といいます。
【出典元:八臂辨財天】
腕が八本で八臂。
姿形からすると、神社の神様よいうよりは仏様のようです。
釈迦堂を後に人気の少ない境内を歩きます。
木陰と時折吹く風で猛暑日とは思えない快適さ。
砂利を踏みしめる音すら涼しく感じます。
お次は、青空一杯、フレーム一杯にそびえ立つ金堂。
先程の釈迦堂も立派でしたが、こちらの金堂は本堂だけあって圧倒される大きさ。
天智天皇が信仰されていた秘仏である弥勒菩薩がご本尊として祀られているようです。
金堂から振り返った抜けるような青空。
朝が早いこともあって人も少なく、空気がひと際澄んでいます。
金堂の左手にあったお堂。
案内板に閼伽井屋(おかいや)とありました。
以下、案内板より。
「閼伽」とは仏に備える水のことで、屋内の岩組みから湧き出る霊水は、天智・天武・持統の三天皇が産湯に用いたと伝え、「三井寺」という名称の由来となりました。
この霊泉の履屋として慶長五年(1600年)に建てられたのが閼伽井屋で、細部意匠にまで桃山時代の優美な特色を表しています。
ことに正面の?(←漢字が不明です)股には左甚五郎作と伝える龍の彫刻があり、この龍が夜ごと琵琶湖に出ては暴れたので、甚五郎自ら龍の目玉に五寸釘を打ち込んで鎮めたという伝説が残されています。
閼伽井屋の前まで進んでみると、何やらポコポコと音が聞こえてきます。
格子戸の中を覗いてい見ると、注連縄がかけられた岩が見え、下の方は暗くて見えません。
ただし、ひっきりなしにポコポコと音が聞こえ、どうやら音の正体は水が湧き出ている音のようです。
上部には左甚五郎作と言われている暴れん坊の龍の彫り物がありました。
茶目っ気たっぷりの顔に見えました。
こちらは閼伽井屋の左手にあった石組。
閼伽井屋石庭と案内板にはありました。
以下、案内板より。
日本最古の庭園である。
蓬莱山と云い、東海中にあつて仙人が住み不老不死の地と考えられている霊山を形取った石組である。
中央より、人、神佛、鶴、亀と祀られている。
そういえば、以前滋賀県は大津市にある百穴古墳群に向かう道すがら、茶栽培の発祥地とされる場所を偶然通りました。
こちらの日本最古の庭園といい、茶栽培の発祥の地といい、大津市には大津京が開かれていたことからも歴史のある、随分と栄えた都市であったのではなかろうかと思います。
こちらの三体の石像は金堂の側に、何の説明もなく佇んでおりました。
金堂のご本尊を見守る形で配置されているのでしょうか。
突如として現れるので不思議な感じがします。
左右の石像については、無知な為分かりません。。。
ここで、智証大師円珍のことが気になり、調べてみました。
多度郡弘田郷の豪族・佐伯一門のひとり。俗姓は和気。字は遠塵。
生誕地は善通寺から4kmほどのところ。幼少から経典になじみ、15歳(数え年、以下同)で比叡山に登り義真に師事、12年間の籠山行に入る。
承和12年(845年)役行者の後を慕い、大峯山・葛城山・熊野三山を巡礼し、修験道の発展に寄与する。承和13年(846年)延暦寺の学頭となる。仁寿3年(853年)新羅商人の船で入唐、途中で暴風に遭って台湾に漂着した。
天安2年(858年)唐商人の船で帰国。帰国後しばらく金倉寺に住み、寺の整備を行っていた模様。その後、比叡山の山王院に住し、貞観10年(868年)延暦寺第5代座主となり、園城寺(三井寺)を賜り、伝法灌頂の道場とした。後に、比叡山を山門派が占拠したため、園城寺は寺門派の拠点となる。
寛平3年(891年)入寂、享年78歳。三井寺には、円珍が感得したとされる「黄不動」「新羅明神像」等の美術品の他、円珍の手による文書が他数残されており、日本美術史上も注目される。
【出典元:円珍 - Wikipedia】
文中に園城寺は寺門派の拠点となるとありますが、寺門派とは?
天台寺門宗(てんだいじもんしゅう)は大乗仏教の宗派のひとつである。妙法蓮華経を根本経典とする。高祖は中国南北朝時代から隋の時代の天台大師智顗(538年~597年)、宗祖は日本平安時代の第5代天台座主の智証大師円珍(814年~891年)(弘法大師空海の姪の子)。総本山は長等山園城寺(三井寺、みいでら)(滋賀県大津市)。天台宗寺門派(じもんは)とも呼ばれる。
<寺門の名の由来>
妙法蓮華経の教義を重んじる天台大師の仏教は、伝教大師最澄(767年~822年)が日本へ伝えた。これが日本天台宗である。この教えは、第3代天台座主円仁と第5代天台座主円珍の2人の巨人の登場により、日本天台宗本山の比叡山延暦寺で2つに分かれてしまう。比叡山は円仁派が占め、円珍派は山を去り三井寺へ入った。これ以来、山へ残った円仁派を山門派、三井寺へ入った円珍派を寺門派と呼ぶ。
【出典元:天台寺門宗 - Wikipedia】
そして、役行者に感銘を受けて修験道の発展へ貢献されたとのこと。
三井寺にやって来て早々、辨財天社(市杵島姫命、瀬織津姫)・空海・役行者が揃いました。
そのことに気付いたのも、今こうやってブログとして文字に起こしてからなのですが(笑)
さて、引用ばかりですが、先に進みます。
こちらは石像向かって左手にある熊野権現社。
なぜここに熊野権現社が勧請されているのかは役行者、修験道との繋がりです。
三井寺の開祖・智証大師は、役行者のご遺法を慕い、 承和十二年(八四五)御年三十二歳のときに那智の滝に一千日の参篭修行をされ、 役行者の縁起相伝をお受けになり、熊野から大峰の入峰を遂げられました。 ここに円・密の二教に修験道を加えた天台寺門宗独特の三道融会の教風を立てられたのです。
後に三井寺の修験道は本山派と称され、全国津々浦々に多くの修験者を擁して目覚ましい興隆をみました。
【出典元:三井寺>教義の紹介>修験道】
境内を周っているいる最中は点と点で繋がりが見いだせなかったことも、こうやって一つ一つ紐解いていくと、点と点が線になり線が繋がっていき、なんとも爽快です。
金堂付近を歩いていると、今まで耳にしたこともないような何とも奇怪な音?声が聞こえてきます。
動物の鳴き声でしょうか。
鳴き声の正体は次回に続きます。