さて、奇怪な声のする方角に歩いていくと大きな金網の建物が見えてきました。
孔雀さん!
動物園でもないのに、まさかお寺で孔雀に出会うとは。
それも一羽ではなく、確認できただけでも四羽いました。
何故お寺に孔雀?
三井寺のHPに詳細が記載されていました。
下記転載です。
三井寺で孔雀を飼うようになってもう13年にもなるだろうと思います。 その経緯はといえば、当寺のお出入り業者で、桧皮(ひわだ)、柿葺(こけらぶき)等を専門とされている河村社寺工殿社の棟梁が、 趣味として飼育しておられたインド孔雀の数が増えすぎてしまって、 場所的にもとても飼いきれなくなってきたので、 境内の広い三井寺さんに引き取ってもらえないだろうかと相談があったことに始まります。
お寺が孔雀を飼う?
なんとミスマッチな、と思われるかも知れませんね。
小さな子供さんを連れた家族連れの参拝者や、幼稚園、小学校の遠足もしくは写生大会で来山した子供たちは、 思わぬところにいる孔雀を見て大喜びです。なにせ50羽もいるのですから。
動物園よりも多くいるのではないでしょうか。 子供たちに喜んでもらえるのもいいのですが、当寺が孔雀を飼った本当の理由は他にありました。
孔雀明王という仏様をご存知でしょうか。
孔雀の背の蓮台に結跏跌坐して座り、明王といえどもお顔は忿怒相ではなくて、 菩薩形の慈悲相です。4本の手には持物をとり、うち1本の手には孔雀の尾羽根を持っています。
密教では特別な修法の御本尊として重要な位置を占めています。
とりわけ東密(真言密教)の醍醐寺、仁和寺において重視されたようです。
インドでは古来より孔雀は毒蛇を食するといわれており、 その力を神格化し密教が取り入れて、孔雀明王を成立させたのです。 毒蛇を我々凡夫の三毒、つまり貪(むさぼり)・瞋(いかり)・癡(ぐち)に見たて、 孔雀がもつ威力によって煩悩を消滅させようと考えたのです。
修験道の祖、役小角も孔雀明王を篤く信仰したといわれております。
採灯大護摩供を奉修する際、採灯師(導師)が腰に孔雀の尾羽根(ほうき扇)を一本差します。 これは孔雀明王の徳力を授かり、それによって諸魔の退散を祈願するということなのであります。
ですから、孔雀と密教とは重要な相関関係にあるのです。
【出典元:三井寺>教義の紹介>仏教豆百科>孔雀と密教】
ご縁があって孔雀は三井寺に来られたようですね。
お寺なのですが、この一角はさながら動物園のような様相でした。
孔雀明王といえば、真っ先に思い浮かぶのが阿部寛主演の映画『孔雀王』。
印を組んで真言を唱えているシーンが印象的で、良く真似をしていました。
やはり、昔から好きなモノはそんなに大きくは変わっていないようです(笑)
孔雀舎の側に石塔がありました。
側面に梵字が確認できますが、中心が珠(水輪)ではないので五輪塔ではなさそうです。
またしてもお堂が見えてきました。
『一切経蔵』
建物の内部はひんやりとしており、何だか独特の雰囲気がしました。
中央に一切経を納める回転式の八角輪蔵が据えられており、なんとも物々しい雰囲気。
内部の雰囲気はこちらからご覧ください。
そもそも、一切経すら分からない私。
調べてみました。
<一切経とは?>
お経はインドから中国に伝えられ、中国語に翻訳されました。
そして中国人僧侶の著作物も含めて編集されました。これを漢訳大蔵経とか一切経といいます。日本に伝わったお経の中心はこの大蔵経で2,920部、11,970巻のお経が納められています。
【出典元:お経のすべて大蔵経一切経】
『霊鐘堂』
お堂の中には鐘が展示されていました。
弁慶の引き摺り鐘というそうで、特に興味もなくさらっと見て出てきたのですが、帰ってから三井寺のHPで調べてみると、なかなか面白い鐘のようです。
下記、HPからの転載です。
当寺初代の梵鐘で、奈良時代の作とされています。 むかし、承平年間(十世紀前半)に田原藤太秀郷が三上山のムカデ退治のお礼に 琵琶湖の龍神より頂いた鐘を三井寺に寄進したと伝えられています。
その後、山門との争いで弁慶が奪って比叡山へ引き摺り上げて撞いてみると ”イノー・イノー”(関西弁で帰りたい)と響いたので、 弁慶は「そんなに三井寺に帰りたいのか!」と怒って鐘を谷底へ投げ捨ててしまったといいます。 鐘にはその時のものと思われる傷痕や破目などが残っています。
また、この鐘は寺に変事があるときには、その前兆として不可思議な現象が生じたといいます。 良くないことがあるときには鐘が汗をかき、撞いても鳴らず、 また良いことがあるときには自然に鳴るといいわれています。
「園城寺古記」という戦国時代の記録には、文禄元年(1592)七月に鐘が鳴らなくなり 寺に何か悪いことが起るのではないかと恐れた僧侶たちは、 様々な祈祷をおこなったところ八月になってようやく音が出るようになりました。
また建武の争乱時には、略奪を恐れ鐘を地中にうめたところ、自ら鳴り響き、 これによって足利尊氏軍が勝利を得たといわれるなど、 まさに霊鐘というにふさわしい様々な不思議な事件をいまに伝えています。
現在は撞かれることもなく金堂西方の霊鐘堂に奉安されています。
【出典元:三井寺>三井寺について>伝説>弁慶の引き摺り鐘】
三上山のムカデ退治に琵琶湖の龍神様から頂いた鐘だそうで、以前から三上山に行きたいと思っていただけに興味津々です。
鐘にも意思があって、帰りたいと鳴いてみたり、良くないことがあると汗をかいたり、鳴らなかったり、逆に良いことがあると自ら鳴る。
閼伽井屋の彫り物の龍も悪さをしたりと、三井寺には意思のあるモノが住まう地のようです。
霊鐘堂のすぐそばに、水子供養と思われるお地蔵様。
丸いフォルムがなんだか可愛らしく、パチリ。
智証大師聖訓阿字秘釈と書かれた、智証大師のお言葉でしょうか、が近くに掲げられていました。
註
私達本来此侭(このまま)の身に、仏と同じ仏性が秘蔵されてあり、此大宇宙の中に仏と等しき清浄の身を以て、此の世に暮らしているのである。
此の真実を知らないから、此の世を汚れ迷い、罪の世と思いこんでいる。
私達が此の身の真正性が仏である事を知り、心の内に仏性ありと知るならば我身や此世を離れて、他の仏の世界を求める事があろうか是心是仏、是心作法
『是心是仏、是心作法』とは何なのか調べてみたのですが、全く同じ文言が見当たらず、『是心作仏是心是仏(ぜしんさぶつぜしんぜぶつ)』の意はこちら。
「この心仏を作り、この心これ仏なり」
「是心是仏」の後者の「是」は、私の心と仏がイコール、つまり
一つ(不二)であるという意味になります。欲望だらけのこの私が仏と一つなのです。
でもその前の文の「作」は、仏と我は一体であるけれども、
少し違うという「作」なのです。つまり、仏は痛みも苦しみもない。
痛みがあるからこそ人間らしいのです。
また痛みがあるからこそ、人の痛みも分かり、人と人がつながりや共同体が生まれるのです。
やさしさができるのです。
【出典元:大念寺だより】
分からないことだらけで調べてばかりですが、とても勉強になります。
訪れた場所で分からないながらも感じ、後から調べながら文章に起こして思いを知る。
体験して知る楽しさです。
壮大な建物ばかりが続きますが、お次はお堂ではありません。
見上げる形でしか全景が分からない三重塔。
豊臣秀吉によって伏見城に移築された大和の比蘇寺の塔を、慶長五年に徳川家康が三井寺に寄進したものになるそうです。
こちらのお堂付近で急に雰囲気が変わりました。
『唐院潅頂堂』
とても簡素な装飾のないお堂ですが、こちらのお堂の後ろに智証大師の御廟、大師堂があるようです。
ですので、こちらのお堂は拝殿にあたるそう。
門を出ると、両側にずらりと石灯篭。
振り返った景色。
奥に見えるは先程通った唐院潅頂堂。
良い景色です。
分からないところを調べてばかりで、なかなかゴールに辿り着きません(^^;
つづきます。