週末の自転車男子チームとは分かれて、今回も一人シロンプトンでのお参り。
やってきたのは野崎。
目指すは、野崎駅から山へと向かう参道先の野崎観音。
子供の頃、確か母と一緒にこの参道を歩いた記憶があり、私の記憶では垂直かと思うくらいの急な坂だったのですが、自転車で立ち漕ぎすることなく上って来れました(笑)
と思ったのも束の間、もしやこの見るからに子供の足ではなかなか大変そうな石段がそうだったのかも?
こちらの木。
よく見ると根っこで石組が崩れてしまっています。
やはりこの石階段が私の記憶の激坂なような気がしてきました(^^;
後ろを振り返るとなかなかな傾斜!
幼少の頃であれば、この階段を一段上がるだけでも一苦労だったのでは。
そんな子供を連れて、お母さん今更だけれどありがとう。
さて、石階段も残り僅かな踊り場で、水の流れがありお山からの水だと良いのですが。
石段を上がった先には野崎観音ではなく、南條神社。
御祭神は素戔嗚尊様。
【手水舎】
龍というより、馬のような面持ち。
どことなくほっこりはん。
こちらは野崎観音の手水舎。
紋に釘付け。
葵の紋。
先月、上賀茂神社で二葉葵の紋を目にしたばかり。
どうして葵の紋なのか気になりつつもお参り。
ありがたいことに、御本尊の十一面観音菩薩が御開帳されており、近くでご尊顔を拝顔させて頂きました。
野崎参りの5/1~5/8の期間は御本尊が御開帳されるようで、私が伺ったのは5/7。
ギリギリ(笑)
でも、ありがたし。
境内には飯盛山へのハイキング道があり、お山に入りたい気持ちはありつつも今日はお参り。
こちらのお堂は三十三所観音堂とあり、西国三十三カ所観音霊場へ行かずとも全てのお参りが出来るとのことで、中に入ってお参りしておくべきだったと今気付きました(^^;
御本尊の十一面観世音菩薩様は別名『いねむり観音』とも呼ばれているそうで、観音霊場を決める観音さんの集まりにあろうことか遅れてしまい、時すでに遅し。
三十三ヶ所はもう決まってしまった後だった、というオチ(笑)
何ともお茶目な観音様です(^^)
お堂の裏手に飯盛山への登山口がありました。
こちらは本堂向かって右手側のお堂。
【江口の君堂】
平安時代の白拍子の方のお堂で、十一面観世音菩薩様に病を治していただいたお礼に、野崎観音さんを再興されたのだそう。
女性のあらゆる願いを叶えて下さる、とても懐の深い方のようです。
そのお堂のちょうど裏側に木の彫り物がありました。
像にどなたか、神様でしょうか、が乗られているように見えます。
江口の君堂の奥にもお堂がりました。
【らかん堂・十六羅漢像】
羅漢とはお釈迦様の高弟16人だそうで、中に入ってお参りさせて頂きましたがなかなか迫力のある方々ばかりでした。
野崎観音の十六羅漢は、江戸時代から、
「のざきかんのん十六羅漢、うちの親父は働かん」
と子どもの遊び唄にまで親しまれてきたとHPにあり、関西弁と相性よろしな面白い唄やな、と(笑)
飯盛山でも修行をされていたのでしょうか。
【薬師堂】
その側にあった歌に目が留まりました。
『合掌の 指にあかりが しかとある』
手を合わせるたびに感じます。
薬師堂の下を見下ろすと池があり、この日はなかなかな夏日。
池では鯉が気持ちよさそうに泳いでいました。
その側のベンチで、アッつい紅茶を飲む私。
アッついわ(笑)
頂いた御朱印。
御朱印をいだたいている間、気になっていた葵の紋について寺務所の方にお話しを伺いました。
葵が三つに丸紋は『丸に立ち葵』といって、徳川四天王の本多家の家紋。
昔、本多家が野崎観音からほど近い香里園の地(成田山不動尊のある土地です)を訪れていたようで(大坂夏の陣、冬の陣の道中でしょうか?)、その際、そのまま紋がその地に残り野崎観音へと受け継がれて今に至るということでした。
ちょっとうろ覚えな箇所もありますので、話しの多少の違いはあるかもしれませんが、『丸に立ち葵』が徳川家四天王の本多家の家紋ということだけは、バッチリ覚えております。
ここからは気になって、自宅で調べた知識。
徳川四天王の話しが出れば、気になるのは徳川家。
調べてみたところ、徳川家の家紋は『三つ葉葵』
四天王といえども、一家臣にしか過ぎなかった本多家が葵の紋を使うことが出来たのは、異例中の異例だそうで、戦国武将や戦国時代に全く興味のない私ですが、こうして背景が分かっていくと何事も楽しいものですね。
葵といえば二葉葵の上賀茂神社と下鴨神社くらいの知識しかありませんでしたが、また一つ勉強になりました。
そんな中、たまたま気になったお寺を調べていたら、そのすぐそばに本田家のお墓。
繋がる時はどんどん繋がります。
行きたいところはどんどん出てきますが、残念ながら私の身体はたった一つ。
ご縁があれば行けるのでしょう。
さて、ここからどちらへ向かおうかとGoogleマップを見たところ、南條とくればやはり北條がありました。
つづきます。