母の日。
母は電車でシロンプトンと一人旅。
降り立った先は長岡天神駅。
一人で写真を撮っていると、見るからにここまで沢山歩いてきましたと言わんばかりのおじ様方の集団が、『一緒に写真撮ったろか?』と声をかけて下さいました。
ありがたいですが、ブログのメインはお参りと自転車。(パンはいずこへ)
私は不要です(笑)
自転車を走らせること2キロ弱。
道中とても気になる木があり、後で寄ろうと通り過ぎたところ目指す場所はその木のある場所でした(笑)
【乙訓寺】
例年であれば牡丹祭が開催されていたようですが、まだまだコロナ禍。
今年も開催は見送られてしまったようで、更に到着した時刻は15時過ぎ。
今日はどうやらご縁がなさそうです(^^;
牡丹は木の養生を考えて、ご覧の通り蕾は既に切り落されてしまったよう。
残念ですが、新緑眩しいこちらの参道を誰もいない中、一人お参りできるのはこれはこれで贅沢です。
【八幡社】
【本堂】
【乙訓(おとくに)】
地名の諸説のうち、葛野(かどの)郡から分離して新しく郡を作るとき、葛野を「兄国」とし、新しい郡を「弟国」(乙訓)としたと見るのが妥当。『日本書紀』によると、第26代継体天皇は河内で即位され、その12年(518年)3月、都を弟国に移された。乙訓寺は当時の宮跡として有力視されている。
【乙訓寺の創建】
日本に仏教が伝来したのは約1450年前。乙訓寺は太秦の広隆寺(603年創建)とほぼ同じく約1380年前の創建と見られ、寺伝では推古天皇勅願、聖徳太子創建となっている。これを裏付けるように、発掘調査の結果も、設計には法隆寺と同じ高麗尺が使われているという。
【長岡京】
延暦3年(784年)、都は奈良から長岡京に移った。わずか10年で京都に都は移ることになるが、唐都・長安(西安)を模し、堂々たる都城づくりが進められ、乙訓寺は都の鎮めとして重要視された。
【将軍綱吉の援助で隆光が中興】
長谷寺で修学後、江戸に出て、将軍綱吉の信任厚く、将軍の祈祷寺・江戸護持院住職となった隆光は、乙訓寺を請い受け自ら住職となった。
綱吉は寺領百石を寄進し、徳川家の祈祷寺とし、諸大名・公卿の信仰も集まった。
隆光は乙訓寺中興第一世として内外の尊敬のもとに、寺を再び真言宗に改め、堂宇の再建、乙訓寺法度(はっと=きまり)の制定などに復興を尽くした。
当時の寺域は八千二百余坪あったという。
【出典元:乙訓寺の歴史 | Otokunidera】
つい先日訪れた野崎観音で、徳川家に関する話を伺ったばかり。
繋がる時は繋がります。
そんな気付きも、こうしてブログに文字として起すからであって、人によって気付く方法は異なりますが、私には体験したことを文字に起こすことが必要なようです。
本堂左手に面白い石がありました。
ちょっとこのエリアには立ち入らずな感じでした。
こちらの木は乙訓寺のHPにあるミカンの木でしょうか。
お大使様が西域より持ち帰られたミカンの木は、当時は珍菓だったそうで嵯峨天皇にも献上されたとありました。
御本尊は十一面観音立像。
そういえば、先日お参りに行った野崎観音の御本尊は、十一面観世音菩薩。
今回、何も考えずに電車に乗り、降り立った長岡京駅ですが、すでに行く場所は決まっていたのかもしれません(笑)
こちらのお社周りは、朱色の橋、水はないものの池、池の中のお社とくれば、お祀りされているのは弁財天様だと思います。
さて境内をぐるりと回って、今日一番惹かれた木の元へ。
今日の目的は、この木だったようです。
シロンプトンと記念撮影。
さて、思いのほか早くに参拝が終わり、ただこの時点で時刻はもう16時。
他にお参りに行けるところもなく、ただこのまま帰ってしまうのも面白くなく、ちょっと走ってみようと走り出すと、止まらないですね(笑)
気付けば島本駅までやってきました。
島本駅前といえば、ここ最近お世話になっている楠木正成公、御嫡男の楠木正行公の忠孝の碑がある場所です。
ここ桜井の地で、楠木正成公は御嫡男の当時11歳とまだ小さかった正行公と最後の別れ。その足で足利尊氏との戦に赴き、天命を全うされたそうです。
それにしても、意図せずしてこの地へとやってきましたが、この面白い流れは自分にしか分からない楽しさ嬉しさだけに誰と共有することも出来ず、ちょっとここに記させて頂きます。
ありがたし。
元をただせば、家でのちょっとした小競り合いに私の怒りが爆発しての今回のお参り。
このままでは怒りに自分が呑み込まれ、更には家族へと二次災害が及ぶ恐れがあり(他人事のように書いていますが、随分とこうして自分を俯瞰して見れるようになりました。)要は、イライラをぶちまけるという事です、一人でプチ家出輪行(笑)
ひとまず自転車に乗って駅まで来たものの行く先も決まっておらず、ふと浮かんだ乙訓寺。
こんなにイライラした人間が果たしてお参りに行っても良いのだろうかと思いつつも、駅に着いたらもう後ろは振り返らず前に進むだけ。
走っているうちに、モヤモヤやイライラもどこかへ飛んで行ってしまい、乙訓寺に着く頃にはスッキリ。
寺務所は閉まってはいましたが(笑)
なんやかんやとその日はプリプリしていましたが、そのまま自転車で高槻市の山間部にある我が家に着く頃には、ちょっと自分が一皮むけたような気分になっていました。
私は怒ると厄介で、そんな自分をここ最近持て余しておりますが、今回のお参りで怒りの手放しが上手く出来たような、気のせいかもしれませんがそんな感じがしました。
そして、下半身疲労困憊で家に入ったら良い匂い。
主人と子供達でご飯を作ってくれていました。
キッチン、ぐちゃぐちゃでしたけどね(笑)
ありがたいです。
プリプリしていた自分が馬鹿みたい(笑)
私は家族と共にあります。
家族の理解があるからこそ、こうして一人お参りに行くことが出来、傍から見たら随分と変なオバサンかもしれませんが、それを許容してもらっています。
(ただ娘は以前の私のように、会社でバリバリと働いて欲しいようですが(笑))
お参りに行っているのか、何をしているのか、自分でもちょっとよく分からない時が多々ありますが、分かっていることは『気付き』が増えること。
自分で体験した上での『気付き』は、頭ではなく、肚で分かるような気がします。