奇しくも、楠木正成公、正行公と縁の深い吉野へとやってきました。
そんなことは、いつもこうしてブログにしない限りは気付くこともなく、行動して後から気付くしくみ。
毎回知らないことの連続で、この『気付く』という瞬間にいつも底知れない感動を覚えます。
お参りさせて頂けるのは、本当にありがたいです。
連れて行ってくれる主人。
ここ最近は、嫌々連れていかれている子供達(笑)
ここ最近増えてきたお参り友達。
そして、体力だけには自信がある私の身体(笑)
感謝です。
さてさて、のっけから話しが反れてしまいましたが久し振りの吉野山。
どうしてもお参りしたい箇所を重点的に、なるべく効率よく回ろうと、まずは吉野山の上千本にある神社からお参りし、順に下っていく作戦です。
【吉野水分神社】
時代を感じさせる鳥居とは打って変わって近代的な手水舎。
楼門に木彫りの梟。
番人のようにお見受けしましたが、さてどうなのでしょうか。
水分神社というだけあって、龍の絵が奉納されていました。
日付が切れてしまっていますが、絵の感じからすると比較的新しいもののような感じがします。
桜の時期はとうに過ぎてしまっていますが、青葉茂る姿も見事な桜の木。
この空間だけ時間がタイムスリップしたかのような錯覚を覚えます。
どの角度から見ても素晴らしい桜の木。
社殿は慶長9年(1604)、豊臣秀頼によって再建されたもののようですが、その当時より時間が止まっているかのよう。
目の前にずらりと並ぶ本殿の向かって左側に、御本尊の木造玉依姫命座像が安置されており、御神体の為一般公開はされていないようです。
そして北口本宮富士浅間神社でもお祀りされていました。
葛城水分神社・都祁水分神社・宇太水分神社と共に大和国四所水分社の一つとして水の神を祀り古くから信仰されてきた。
約700年前の室町時代より当社境内で御田植神事(後述)が行われているが、神社がある吉野山では水田が無いにも関わらず神事が行われるのは、里に水を行き渡らせる「水分」の神が祀られているからである。
また「みくまり」が「みこもり」となまり -「御子守り」として、平安時代中期頃から「子守明神」と呼ばれるようになり、藤原道長の日記『御堂関白記』や清少納言の『枕草子』にも「子守明神」として登場している。また、道長は寛弘4年(1007年)に、金峰山山上の子守明神に金銀五色等を奉ったと記録に残り、当時の権力者からも崇敬を受け子授けの神が信仰を集めていたことが分かる。
12世紀ごろには神仏習合により、水分神は地蔵菩薩の垂迹とされ(子守権現)、金峰山の蔵王権現(金峯山寺)に属する神社として修験道の行場の一つとなっていた。明治の神仏分離によって金峯山寺より独立し、村社に列格した。
【出典元:吉野水分神社 - Wikipedia】
【西行法師坐像】
『嘆けとて 月やはものを 思はするか こち顔なる わが涙かな』
娘が一時期熱中していた百人一首。
これも何かのご縁。
ただし、ここ最近カルタには全く見向きもしませんが(笑)
こちらのお窯は番人の梟の置物と一緒に飾られていましたが、安土桃山時代に豊臣秀頼から寄進された湯窯とあります。
『博物館とかで保管しなくて良いの?』と、何も分かっていない私はドキドキしながら写真を撮りました。
何故ここに役行者の像があるのか、参拝時には全く分からなかったのですが、Wikipediaによると、吉野水分神社は明治時代の神仏分離以前は行場の一つとなっていたとあり、修験道の祖の役行者の像があるのも納得です。
桜のシーズンはとうに終わり、そしてまだ午前中ということもあってハイキングの方が数名の吉野水分神社。
ゆっくり参拝させて頂きました。
お次は吉野山と言えばのお寺へ。
つづきます。