おみくじの大吉に気を良くして自転車をこいでいたところ、ポツポツと雨が。
そして追い打ちをかけるかのように目の前には坂!
右側の水路の水がとても綺麗で思わずパチリ。
このまま雨に降られてしまうのかと思っていたところ、ポツポツで終了。
ちょうど見えてきた標識が次なる目的地の『百穴古墳群』
古墳好きな息子に主人が無言のサイクリングでナビゲーション。
百穴古墳群へ向かう道中、志賀里という箇所を通ったのですが、どうやらこの一帯は日本の茶栽培の発祥地になるそうです。
入唐留学約30年に及ぶ 僧永忠が、延暦24年(805)に帰国の際、茶の種を持ち帰る。崇福寺ち梵釈寺の検校(宗務総長)となった永忠が、寺域周辺に茶畑を開き、茶が程良く成育した弘仁6年(815)、嵯峨天皇唐崎行?の折、天皇に茶を煎じて献じた。これがわが国における茶の接待の初めという。この付近は、その所縁の茶園のなごりである。
唐崎学区創立40周年記念
唐崎学区文化協会史跡ガイドの会
日本茶=宇治、静岡なイメージしかありませんでしたが、ここ滋賀県が発祥の地であったとは、また一つ勉強になりました。
古い街並みを抜けると、ここから急に気配が変わります。
目的地の百穴古墳群です。
古墳時代、6世紀後半から7世紀にかけての古墳群。
詳細は下記立札より。
百穴古墳群は今から約1400年前(古墳時代後期)に造られた墓が多く集まったところです。
これらの墓は、大きな石を上手に積み上げて造られた石の部屋(横穴式石室)を土でおおったものです。石の部屋は、死んだ人を納める場所(玄室)と、これと外とを結ぶ細い通路(羨道)とにわかれています。
表から見ると、この通路の入り口が穴のように見えます。この穴がたくさんあることから、「百穴」という名前がつけられました。
石室の壁の石は、天井に向かうにつれて少しづつ迫り出して積まれているため、天井はドーム状になっています。石室内には二、三人の人が葬られており、死んだ人は、時には金のイヤリングや銅のブレスレットなどで飾られ、北石の棺桶に入れられました。また、石室内には、多くの土器(土師器、須恵器)もいっしょにおさめられました。この仲には、お祭り用のミニチュア炊飯具セット(カマド・カマ・コシキ・ナベ)も含まれています。
古墳時代後期、古墳群は全国各地でたくさん造られましたが、この百穴古墳群のように、石室の天井がドーム状で、ミニチュア炊飯具セットが納められているという特徴は、大阪・奈良・和歌山の一部にも認められますが、ほとんどが大津市の坂本から錦織にかけての地域だけに見られるものです。現在までの研究では、これらの特徴は、遠く中国や朝鮮半島からやって来た人たちと、深く関係するのではないかと考えられています。
昭和十六年(一九四一)年一月、国指定の史跡となりました。
大津市教育委員会平成四(一九九二)年三月
入り口にはこのような石碑?お墓?の一帯があり、
周りにはこのような巨石が積み上げられた場所が、山の至る所にそのままむき出しの状態で存在していました。
玄室は結構深いです。
玄室の中を見て驚いたのが、このようにきっちりと積み上げられた石組み。
このような技術が今からおよそ1400年程前にすでに確立しており、その技術は渡来人がもたらしたもの。
渡来人で思い出すのは、秦氏が日本にもたらした発酵食品。
松尾大社といえばお酒の神様。
そしてお酒は発酵食品。
コロナ禍で一時期、愛食していた納豆がスーパーの棚から消えた時にはビックリしてしまいましたが、見えないウィルスに対抗できるのは、これまた人間の目には見えない微生物の力なのでしょうか。
いずれにせよ、発酵食品は日本になくてはならないものです。
さて、石室はまだまだ沢山点在しております。
こんなに一度にたくさんの石室を見たのは初めてです(笑)
個人的に気になった石。
ここは二本の木が鳥居のようで気になりました。
気付けば山を随分と登っていたのですが、終わりが見えない古墳群。
『なんてったって、百穴~♪』ですからね(^^;
そんなことはお構いなしに、私を放って古墳好きな息子はズンズンと先に進みます。
ただ山登りを予定していなかった為、この日は軽装。
残るは次回へということで下山。
山中は鬱蒼としているのかと思いきや、定期的に手入れがされているのか太陽の日が地表にあたるように木が剪定、伐採されていました。
日中30度まで上がったとは思えない涼しさ。
山の状態が良いからだと思うのですが、川の水がとても澄んでおり、写真にはおさめられませんでしたが、この写真の範囲で蛇にカニ、
そして、カエルに出会うことが出来ました。
水の気のおかげか、珍しくバテ気味だった身体が生き返りました。
さて、まだまだ娘との合流まで時間があります。
更に奥に進んでみることに。
つづきます。