(いつ見ても格好よろしおすー!)
毎年4月17、18日は如意輪観音様の御開帳日。
念願叶って、やっと参拝することが出来ました。
観心寺には9時半過ぎに到着しましたが、その時点で案内されたのは10時半からの拝観。
当日は次から次へと人の波。
30分ごとの入れ替え制の拝観を終え、金堂から出ると長蛇の列。
観心寺さんへは何度か訪れておりますが、いつもの静かな境内とはうって変わって人の多さに圧倒されました。
如意輪観音という仏様を知ったのは、今から6年前。
当時は自転車で近所の寺社仏閣を参拝しており(今と大差ないですが、今は距離が延びました)、初めて参拝したお寺の御本尊が如意輪観世音菩薩様でした。
御本尊を前に手を合わせた途端ビックリしたことに涙が止まらず次から次へと溢れ、特に悲しいことがあったわけでもなく、一体全体何の涙なのか全く分からず。
例えるなら、蛇口をひねると自然と水が出るように、手を合わせたら自然と涙が出、そしてそこに何らの感情もなかったということ。
未だにあの涙の意味は分かりませんが、あれ以来気付けば如意輪観世音菩薩様と縁のある場所へ参拝していることに。
秘仏開帳は30分入れ替え制の拝観ではありましたが、その間お坊様からのお話しもあり、お堂の後方に座っていた人は前列の方と入れ替えをして頂けるアナウンスがあったりと、慌ただしくはありましたが最後に如意輪観音様を間近で拝観させて頂くことも出来、良き拝観となりました。
境内は秘仏開帳のある金堂以外は人もまばら。
この静寂な境内の雰囲気が何度訪れても心地良く、そして楠公さんへの想いは増すばかり(笑)
こちらの可憐な佇まいのお花は春先に咲くシャガの花。
お寺や神社の境内で見かけることが多いのですが、調べてみると古来中国から伝わった帰化植物であり、人為的に植えられた植物のようで、自然林にはほぼ自生しないとありました。
よく見ると、右手第三手 念珠 『智慧を授ける』とあります。
慧の漢字は、さとい、かしこい、ちえ、心のはたらきの意味があり、仏教では物事を見抜く能力。
2022年から、秘仏開帳の日限定で如意輪観音様の六手を一本づつ表現された御朱印を用意されているようで、今年2024年は第三手。
蒐集癖のある私としては是非とも全ていただきたく、これからも観心寺さんへの参拝は続きそうです。
御朱印の六手をコンプリートするとなるとあと5年。
5年後の私は私の思うような姿となっているのでしょうか。
ただ、こうして他人事のように傍観していても何も変わらず、つい怠けてしまう心をどうにか鼓舞して頑張らなければなりません。
そんな私の心と呼応するかのように、昨晩たまたま見たTVでOfficial髭男dismの宿命が流れ、下記のフレーズにドキリ!としました。
その都度その都度、与えられた場所で精いっぱい頑張ってきたという自負はあるのですが(どうしようもない時期もありましたが)、それでもそれは宿命といったものを意識しての行動ではなく、そもそも自分の成すべき宿命を知らず、例えるならばその場に対する反射対応のようなもの。
天下を取るだとか(←何時代?(笑))、世に名を馳せるだとか、そんな大それたことではないにしろ、自分の持って生まれた能力をきちんと使ってこの世を後にしなければ、どうにもこうにも後味が悪いような気がここ最近しています。
その能力とは、それこそ霊力だとかの特別なモノではなく、例えばコミュニケーション能力が高いであるとか、整理整頓や料理が得意であるといったような、普段誰しもが意識せずして使っている能力。
その能力を保持している当の本人であれば、気付くこともないであろう当たり前の能力。
持っていない者からすればスゴイ!となるような能力も、当の本人が気付いて磨かなければ宝の持ち腐れ。
そんな自分の標準設定である能力は脈々とご先祖様から受け継いできたもの。
もちろん、遺伝+αの環境要因を無視することは出来ず、全てを遺伝だけとすることは出来ませんが、そんな自分の能力を知って、世の為人の為に尽くすことがこの世に生まれてきた各々が成すべきことなのかなと思うようになりました。
ただ、そこに行きつくまでには外的要因であったり、内面的な未熟さ故に楽な方に航路を取ってしまい、気付けば思っていた場所に辿り着けなかったということもあるかと思いますが。
いずれにせよ、己を知る為には他者と交わり、他者を知ることでしか己を知ることが出来ないという、己と他者は合わせ鏡の関係であることが言葉としてではなく、やっと肚で分かった感じがします。
己の宿命を知るには、まず己を知ること。
己を知るには、他者を知ること。
やはり人は一人では生きていけないようです。
今回、久し振りに御朱印を頂きましたが、御朱印帳を開けてビックリ!
昨年、三大如意輪観音の一つである兵庫県の神呪寺で秘仏開帳の御朱印を頂きましたが、ちょうどその見開きに観心寺さんの如意輪観音様の御朱印が並ぶこととなりました。
更には、当日ありがたいことに如意輪観音様の御影もいただくことが出来(100円でした)、神呪寺でいただいた御影と並べてなんとも嬉しい瞬間。
傍から見れば何が楽しいんだろうかと、家族が私を見る目でよく分かりますが、誰が何と言おうが、当の本人が楽しいのだから仕方ない(笑)
小さな幸せ、大きな充足です。
今回観心寺へは、出会って40年のサン友と南海電車と南海バスに揺られて向かいましたが、今まで車での参拝では気付かなかった場所を見つけました。
観心寺のバス停近くにあるこちらの場所。
どこかに下に降りる道があるかとは思うのですが、バスが到着してしまいあえなく散策は断念。
とても気になる場所でしたが、こちらは次回の参拝時に。
6年前に如意輪観音様に出会わなければ、きっと楠公さんに出会うことなく、そして楠公さんに出会わなければ間違いなく河内長野市にやって来ることもなく、こうして自分にとっての必要なご縁は、必要な時に必要な流れとなってやってくるのだと思います。
ただ、そんな流れも日々の行いが滞っていればやってくることもなく、必要な流れは、常日頃から流す習慣をつけておくことが必要で、そんな話しをサン友と話しながら、こういった参拝も流す行為の一つなのではないかと感じました。
ただ、参拝となるとそう頻繁には行くことも出来ませんし、となると日々の掃除や整理整頓、正しい行いが滞りを無くし流すことになるのだと思います。
こちらは河内長野市駅前の楠木。
楠公さんへの想いはとどまることを知らず、そんな私の熱の入った話しを横で聞いていたサン友から『友達(私)の彼氏が出ているサッカーの試合観戦を一緒見に来たような感じ』と、言い得て妙な例え(笑)
楠公さんは現代に肉体として存在しておりませんが、想いは遥か時空を超え。
楠公さんは私にとってなくてはならない存在。
心のヒーローで、今回も参拝させていただけたことに感謝です☆
(そして、そんな私を遠目に見ている私がいるのも事実です(笑))