シロンプトンでパンとお参りと

ブロンプトン(白)でふらりとお参り、そしてパン。

【大阪/茨木市】安威砦跡、その北に位置する本龍寺

この日はとても空が綺麗でした。

f:id:roy-7303-pkbs:20200515090751j:image

目指すは、前回川沿いでおにぎりを食べながら息子が『なんかあそこが怪しい』と言っていた安威砦。

【大阪】阿為(あい)神社 - シロンプトンでパンとお参りと

 

目の前のこんもりとした山です。
f:id:roy-7303-pkbs:20200515090728j:image

 

どこから入れるのかも分からず、ひとまず山裾の道を自転車を走らせてみることに。
f:id:roy-7303-pkbs:20200515090754j:image

見た瞬間、きっとここ!と思った坂道をめがけて息子疾走!
f:id:roy-7303-pkbs:20200515090814j:image

私はもちろん、即降車。

無駄にエネルギーは使いません(笑)

 

目指す安威砦の入り口を見つけました。
f:id:roy-7303-pkbs:20200515090743j:image


f:id:roy-7303-pkbs:20200515090803j:image

 

安威砦跡は、東西にのびる花園山丘陵の東端にあたり、標高89mの通称「天神山」や「城の森」とも呼ばれているところです。

北から南にかけて三か所の郭(一区画をなしている地域。)が並び、周囲に堀などの施設をもった城(砦)があり、現在も東西50m・南北100m程の遺構を残しています。砦を築いたのは、藤原鎌足楠木正成など諸説あり、いずれも後世の付け足しと思われ詳しいことはわかっていません。

『足利李世紀』大永六年(1526)桂川合戦の条に「山崎ノ城落ちケレバ、摂津上郡芥川城、茨木城、安威城、福井城、三宅城等聞落ニシテ明引クケル」と記されており、かなり慌ただしい当時の様子がうかがわれます。廃城の時期については、安威弥四郎の子で秀吉の被官として重要な職にあった五左衛門了佐が、天正十四年(1586)に茨木城主となった頃と推測されています。また、豊後竹田大分県)の中川家の家臣として残った安威氏の系譜によると、了佐の子、勝宗は安威城主であったとの記載があります。

茨木市教育委員会

 

藤原鎌足の名前がここでも出てきました。

そして、楠木正成の名前。

何故、茨木と楠木正成が繋がるのかと少し調べてみたところ、茨木市城、茨木福井城の築城は楠木正成ではないかとの説があるようです。

 

楠木正成と言えば、

 

 ・鎌倉幕府倒幕

 ・湊川神社の御祭神

 

くらいの知識しかなく、また新たな発見です。

 

文中で私が分からない言葉を下記に。

《被官》

律令制下、日本の官制において上級官庁に附属する下級官庁ないし下級官庁に附属する官吏をいった。八省の下に属する寮や司、署、国司に属する郡司などがそれにあたる。(↔所管)


・上級の武士に隷属する武士をいう。主に守護に従属する国人領主をいった。


・江戸時代以前、地主(屋形)に附属する身分の低い百姓をいった。「譜代下人」を参照。

【出典元:Wikipedia

 

さて、せっかく入り口を発見したものの残念ながら『立入禁止』の看板。
f:id:roy-7303-pkbs:20200515090725j:image

ヒョイと飛び越えれば難なく入れる立入禁止のチェーン。

でも、入っていけないものは入ってはいけません。

 

それでも納得できない息子。

往生際悪く山沿いの道を走ってみるとまた、入り口を見つけました!
f:id:roy-7303-pkbs:20200515090758j:image

 

でも、もちろん入れません。

さすがに息子もこれで納得。

 

目の前の急斜面とその奥に広がる光景、山の中を最大限に想像、妄想しながら安威砦跡を後にしました。

 

道中、以前も立ち寄ったことのある本龍寺へ。
f:id:roy-7303-pkbs:20200515090739j:image

 

八大龍王法要が7月13日にあるようです。
f:id:roy-7303-pkbs:20200515090731j:image

この日は息子リュウ氏の誕生日。

思わぬところでのシンクロに嬉しそうでした。

 

境内の中にある唯一のお社、稲荷神社。
f:id:roy-7303-pkbs:20200515090836j:image

近くにある池の水は抜いているのか、底の土が見えており、
f:id:roy-7303-pkbs:20200515090718j:image

手水舎の水はコロナの影響なのか出ていませんでした。
f:id:roy-7303-pkbs:20200515090721j:image

本堂
f:id:roy-7303-pkbs:20200515090810j:image


f:id:roy-7303-pkbs:20200515090828j:image


f:id:roy-7303-pkbs:20200515090806j:image

 

【由緒沿革】

当寺を中心にして東西南北を大別すると、東には阿武山、継体天皇の御陵集落の地(八十塚)があり、そのいくつかが境内にもあり、本堂西側にもある。境内無縁は、その塚の人をまつっている。西には藤原鎌足公の古墳寺の南には天神山北には隠れキリシタンの遺跡、竜王がそびえ境内をとりまく様に、安威川が流れている。

昭和八年九月二十日、開基庄司信呂上人は、本門法華宗華園八品教会として七百余坪に本堂(現在の帳場)を建立、昭和九年本堂より二百米の山間に水行場、山門には丈余の宝塔をもうけ、その後六百坪を求めて昭和十二年三年現本堂を新築、昭和十八年七月二十五日、寺号公稱を見ず遷化された。今尚、香華絶えず。

昭和二十一年三月、土畑信澄上人遺志を継ぎ寺号昇格、妙顕山本龍寺と公稱、仏祖の加護と檀信徒の協力を得て廊下増築、納骨堂、手洗い(本行寺の一部)、水行場の移築、水子菩薩の建立、集会所の設立等を経て、今日の本竜寺の偉容をなす。

合掌

本竜寺二世 土畑 信澄

 

ここで由緒沿革で気になった箇所と、単語の意味を下記に。

 

【場所】

 

 東の阿武山:阿武山稲荷のある山。阿生山古墳は藤原鎌足公の陵墓とも。

 

 八十塚:塚原八十塚。塚原古墳群は15群・約110基を数えた大阪府高槻市の古墳群。

 

 西の藤原鎌足公の古墳:将軍塚古墳

 

 南の天神山:安威砦のあるお山

 

 北の竜王山:八大龍王をお祀りしている宝池寺のあるお山

 

【単語の意味】

 公稱(こうしょう):一般に公開されること。稱は称の旧字体

 

由緒によると昭和初期に建立された、比較的新しいお寺のようです。


f:id:roy-7303-pkbs:20200515090818j:image

 

少し境内を散策して、

f:id:roy-7303-pkbs:20200515090736j:image

f:id:roy-7303-pkbs:20200517154143j:image

 

お次は、息子が以前から私に教えたかったという場所へ。

 

それにしても、この日は本当に空、雲が素晴らしく
f:id:roy-7303-pkbs:20200515090748j:image

安威砦跡へは入れなかったものの、良い散策となりました。

 

つづきます。