4月上旬。
キャンピングカーに揺られ着いた先は、本州ではなく瀬戸内海に浮かぶ島。
四国。
旅の予定は立てておらず、とりあえずサイクリングが出来れば良いかと、ふと目にした神社が気になりました。
神社の後方にそびえるお山。
その手前には、神社の無料駐車場1000台分の広大な敷地。
正面ではなく、またしても裏参道から。
境内に入るや否や目にした光景で、すでにこちらの神社の木に出会えたことが嬉しくなる木々達。
先程のコンクリートで敷き詰められた駐車場と同じく足場はコンクリート。
そのコンクリートを突き破らんばかりの樹勢のある木々。
【境内図】
こちらが表参道。
狛犬さんは、前掛けもマスクも炭治郎
こちらの狛犬さんは、じっと座っているタイプではないようです。
【手水舎】
後方の木の佇まいに惚れ惚れしてしまいます。
手水舎の反対側には神馬舎。
そして正面を見ると、この存在感のある御神木。
早くご神木に近付きたいのに、なんだか面白いものを発見してついつい撮ってしまいました(笑)
ここからは御神木と戯れるの図。
一心不乱に御神木を撮っている側で『これが可愛いから絶対撮って!』と譲らない息子。
ふくろうさん(笑)
御神木ですでにお腹いっぱいな気分ですが、拝殿へと向かいます。
大麻比古大神とは?
大麻比古大神とは、大昔阿波国を開拓した阿波の忌部氏(いんべし)の大祖先の神様です。
神武天皇の御代に忌部氏の子孫が阿波国に入り国土を開拓して麻とか楮(かじ)の種を播いて麻布とか木綿をつくり郷土の産業の基を開いて人々の福利を進められました。
その氏族は今の吉野川市 元の麻植郡を拠点として開拓をされましたが国土開発の事業が漸く成った後に御先祖の神様 天日鷲命(あめのひわしのみこと)をおまつりしました。この神社が今徳島市に忌部神社としてまつられており、この神様の御神徳をたたえて麻植の神と申して敬ってきました。
忌部神社の御祭神天日鷲命様の大先祖の神様が天太玉命(あめのふとたまのみこと)で此の神様を大麻比古神社と申し上げ郷土の守り神としてこの地におまつりしたのが大麻比古神社と伝えられています。
【出典元:Q&A - 大麻比古神社】
忌部氏のお名前が出てきました。
忌部氏といえば、古代朝廷で祭祀を執り行っていた氏族。
同じく祭祀を担当していた氏族で忘れてならないのが天児屋根命を祖神とする藤原氏。
ただ、私が知っているのはこの程度の知識^^;
拝殿手前のこの狛犬さん。
見た瞬間、家族全員がとりこになりました。
この何とも言えない前脚と『ウシシッ』と少し悪巧みな表情(笑)
対の狛犬さん。
拝殿右手に奥に回れそうな道を見つけて進んでみることに。
拝殿の右奥に【豊受社】
その左手に【山神社】
本殿の真後ろはお参りが出来るようになっていました。
本殿の裏手を通り過ぎると【中宮社】
めがね橋の案内に従って先を進みます。
小さな石橋が見えてきました。
ドイツ兵の俘虜が造った石橋とあり、なぜ神社の境内に?
境内にはもう一つ、ドイツ兵の俘虜が作ったドイツ橋があり、どちらもドイツ兵が帰国の際、記念にと造られた代物だそうです。
下記、ドイツ橋に関するWikipediaの記載内容です。
以前は木橋であったが、この地に第一次世界大戦の捕虜として収監されたドイツ人たちによって造られた。
ドイツ帝国の租借地であった青島において捕虜となったドイツ兵の一部は、大麻比古神社の約2km南にあった板東俘虜収容所に収監されていた。当時、大麻比古神社境内はドイツ人捕虜たちの散策に利用されていたが、板東俘虜収容所における捕虜への対応が人道的かつ寛大で友好的であるうえ、地域住民との交流も積極的に行われたことから、彼らが帰国する際に記念として築造を提案した。
1919年(大正8年)4月初旬に着工し、同年6月末に完成した。橋の材料は和泉砂岩で、アーチの形式はローマ式の半円形で馬蹄形の石築アーチ橋となっている。内面で180個、全体で3000個の石が使用されており、その重さは195トンになる。
2004年(平成16年)1月30日に徳島県の文化財史跡に指定された。現在は保存のため、橋の上の通行はできなくなっている。
神社の境内にはこれとは別に、ドイツ人捕虜が造成した池があり、この池にも捕虜の建造した小さな石造りの2連アーチ橋がかかっている。こちらには「めがね橋」という愛称が付けられており、現在も通行は可能である。
【出典元:ドイツ橋 - Wikipedia】
神社の境内には、めがね橋とドイツ橋に関する案内板があり、読んでいるだけで胸がジーンと熱くなりました。
地元の方はドイツ兵の俘虜に対して『ドイツさん』と親しみを込めて呼ばれていたそうです。
そして、そんな交流が可能となったのは、ドイツ兵俘虜が収容されていた坂東捕虜収容所の松江所長のドイツ兵俘虜に対する人道的な対応。
地元民とドイツ兵俘虜を交流させた以外にも、夏の暑い日には俘虜たちに川遊びをさせたそうで、それを上層部から咎められた際、『川に落ちてしまった。』と何ともユニークな返答をされたらしく、捕虜収容所の暗いイメージからは程遠い松江所長のお人柄。
色々想像するだけで、その優しさを感じることが出来、今でも思い出すだけでジーンとしてしまいます。
参拝の翌日、大麻比古神社の近くのドイツ館へ立ち寄ったところ、お土産屋さんと同じフロアに当時のことが詳しくパネルで紹介されていました。
まるで大人の社会科見学のよう(^^)
さてさて境内に戻りまして、こちらはめがね橋の池に流れ込む水源。
水量、水質、そして境内の木々達。
こんな立派な境内であるからには、お山もそれはそれは素晴らしいに違いありません。
ふと目に着いた二股の木。
根元が素晴らしく
ちょっと楽しくなってきてしまって、息子と二人木を巡る探検。
この反りっぷりに目が釘付けでした。
こんな道を見つけたら歩かないわけにはいかず、
息子と私でテンションが上がってしまい、
ずんずんと奥に進んでしまったところ、反対側の遠くに見えるは私と息子とは打って変わって冷静な主人と娘の二人組。
境内の森が生き生きとしています。
楽しくなってどんどん参拝ルートから外れてしまい、ひとまず元のルートに戻って来ました(^^;
この楽しかった道は『四国のみち』と言うのだそう。
何でも知らないことや分からないことが気になる性分で、調べてみました。
四国のみち(四国自然歩道)は全長1545.6kmの長距離自然歩道です。
起点は徳島県鳴門市、終点は徳島県板野郡板野町。四国霊場や、各地に点在する身近な自然や歴史に親しみながら、歩いて四国を一周することができます。 愛媛県内の四国のみち(四国自然歩道)は、大小の島々が浮かぶ瀬戸内海、複雑な海岸線を有する宇和海、四国カルストの美しい自然や、へんろ道、旧街道、神社仏閣の歴史・文化に触れながら歩く、全部で33コース、総延長362.5kmです。
【出典元:四国のみち ガイド】
四国のみちは全長1545.6kmという途方もない距離!
その一部、数十メートルを踏破しました(笑)
先を進むとまたもや面白い一画が。
藤棚と岩が鬼滅の刃を連想させるワンショット。
そして藤の花から連想されるのは、下り藤紋の藤原氏。
忌部氏の祖神がお祀りされている神社の境内で、宿敵の藤原氏を彷彿とさせる藤棚。
過去の因縁は既に解かれ、和解されているのでしょうか。
藤は藤色、紫色とばかり思っていましたがこちらの藤は口紅藤とあり、淡い紅色のようです。
先に進むと、ドイツ橋の案内板が見えてきました。
ドイツ兵俘虜の日本への友好の証としての石橋。
ドイツ橋を後に、目の前に朱色の鳥居が見えてきました。
階段を上がった先には、左手に【丸山稲荷社】
右手に【丸山神社】
丸山稲荷社から後方を見るとご覧の通り。
直線状に丸山神社。
参道の頭上には桜
丸山エリアから降りてきたところで面白い木を発見。
先を見ると気になる道があり、息子と私は行く気満々。
それに対して、冷静沈着チームは『案内板もないし、行っても何もないやろ』とつれない返答。
何もなくても行きたいだけなのですが、ここは息子と二人我慢することにしました。
その近くに、八大龍王神社があり龍繋がりで息子はお参り。
来た道を戻り、拝殿近くの奥宮遥拝所まで戻ってきました。
奥宮遥拝所があるということは、後方のお山が奥宮。
行ってみたい!
案内板によると、山頂までは2kmということで、『2kmくらいなら。』の安易な気持ちで登拝を決めましたが、これがあとでエライコッチャな事になろうとは・・・。
つづきます。