吉水神社を後に、お腹が空いている三人はスタコラサッサと足早に。
駐車場を目指して歩く中、道中気になっていた勝手神社。
拝殿は2001年の不審火で焼失してしまったようで、吉水神社でその旨の記載がありました。
吉野大峰山の鎮守社である吉野八社明神の一でかつては「勝手明神」と呼ばれた。
吉野川水源に当たる青根ヶ峰は古くから水神として崇敬を受け、山頂付近に金峯神社(奥千本)・山腹に吉野水分神社(上千本)・山麓に勝手神社(中千本)が建てられた。勝手は「入り口・下手」を意味するともいい、その字面から勝負事や戦の神としても信仰された。神仏習合時代には勝手大明神の本地は毘沙門天と言われ、さらなる武門の尊崇を受けることとなった。また、吉野山の入り口に位置することから山口神社ともいわれた。
創建年代は不詳だが、「日雄寺継統記」では孝安天皇6年(紀元前386年)とする。大海人皇子が社殿で琴を奏でたところ、天女が舞い降り5度袖を振りつつ舞ったと伝えられ、背後の山は「袖振山」と称する。また、この故事が宮中の「五節舞」の起源という。
境内には源義経の妻女、静御前が追っ手に捕らわれた際、舞を見せたと伝わる舞塚が残る。 流造檜皮葺、桁行八間・梁間二間の本殿は県の有形文化財であったが、2001年に不審火で焼失したため、ご神体は向かいの吉水神社に遷座しており、本殿再建のための寄付金が募られている。
【出典元:勝手神社 - Wikipedia】
2001年から20年が経ちますが、再建されるような案内もなく、めどはたっていないのかもしれません。
蔵王権現(金峯山寺)、子守権現(吉野水分神社)、勝手権現(勝手神社)は三所権現として伯耆の三仏寺に勧請され、蔵王権現は奥院(投入堂)、子守権現は地蔵堂、勝手権現は文殊堂に祀られた。勝手明神は単体でも諸国の神社に勧請され、全国28社の勝手神社の総本社となっている。
吉野水分神社祭神の子守明神とは夫婦神であるとされる。勝手明神が男神、子守明神が女神である。室町後期成立の能「嵐山」では、吉野から移植された嵐山の桜の花守(はなもり)である老夫婦は実は勝手、子守両神の化身であり、蔵王権現、勝手明神、子守明神は三身一体であることを宣する筋立てが語られる。
【出典元:勝手神社 - Wikipedia】
先程訪れた子守明神の吉野水分神社が女神、そして、ここ勝手神社が男神で夫婦神。
偶然お参りさせて頂きましたが、陰陽和合、そして金峯山寺を含めると三位一体となりありがたいお参りとなりました。
御朱印は吉水神社で勝手神社で頂くことができます。
さて、勝手神社を後に駐車場への道すがら、ひときわ目立つ後醍醐天皇陵の石碑。
お昼ご飯の後に伺う予定の如意輪寺。
境内の裏のお山には後醍醐天皇陵があり、そんなことを知ったのも吉野への参拝が決まってからのこと。
今日も別件で、必要な時に必要な出会いがあり、天の計らいに感謝です。
やっと家族と合流し、せっかくお弁当を持ってきたのならば外で食べたい私と、いやもうどこでも良いから今すぐに食べたい息子。そして、そんな我の張り合いの二人を遠目にどっちでもいーやんな主人と娘。
結果は、子供相手にまったく大人げない私の勝利(笑)
駐車場から歩くこと10分ほど。
こちらの誰もいない広い休憩所でお昼ご飯♪
石柱に『右 如意輪寺 宮滝』と記載があり気になりつつも、軽装で行ける道と距離ではなさそうで、次はハイキングで吉野山へ伺いたいと思います。
さて、お腹も満たされ元来た道を戻ります。
ふと目の前を見ると、行きには見えなかった祠がありました。
祠の前に井戸のようなものがあり、水の神様がお祀りされているのでしょうか。
ご挨拶をさせて頂き戻ってくると、暑くてやる気なしモードだった息子が川でカニと遊んでもらっていました(笑)
澄んだ水にはカニが沢山で、捕まえてはバイバイ、捕まえてはバイバイを、それこそこちらが声をかけなければエンドレス(笑)
遊具がなくとも、ゲームがなくとも、誰かに何かを与えられなくとも、今ある環境で子供は勝手に遊びを作り出します。
『これがない、あれがない、だから楽しくない。出来ない。』
ではなく、
『今あるもので何が出来るか。どうしたら楽しくなるか。』
私は足りないモノを見つけ、その不足を補うためにどうしたら良いかという思考でずっと働いてきましたが、これだといつまでたっても、もっとより良いものへの渇望が満たされることはありません。
それこそ、エンドレス(笑)
息子のエンドレスは、今ある環境で楽しめることのエンドレス。
不足から始まるのか、満足から始まるのかで見えてくる景色は全く異なります。
カニと遊ぶ息子を見て、改めて気付かされました。
広いお山の吉野山。
6月も中旬のお参りですが、まだまだ続きます。