出かけ先からの帰り道、1日だったことを思い出し、芥川で釣りをしていた息子と主人と合流してお参りへ。
芥川沿いにある阿久刀神社へ。
前回は拝殿の左手にある摂社ばかりに気がいってしまい、右側を全く散策していませんでした。
息子が気が付いた樹齢八百年のご神木。
すぐそばにもう一本立派な木が。
こちらがご神木と言っても良いのでは?と思うくらいにとても力強い樹。
ただ、残念なことにこの樹の1メートルも離れていない場所にお手洗いがあり、下水管の配置上なのかあまりにも接近している為、樹がとても可哀そうに感じました。
前回も感じたことですが、きっと昔はもっと木々達が生い茂って元気な境内だったのではないかと、木々が無い境内を見て想像してしまいます。
お参りに行くにつれ、強く感じることは樹と神社、森と神社は一つセットのような気がします。
樹の気が満ちている神社は気持ちよく、元気です。
反対に木が枯れている、木に元気のない神社はしんどそうな感じがします。
木が枯れる、気が枯れる、気枯れ、穢れ。
文字にしてみるとなんてことのない言葉遊びのような感じですが、気のせいではないと感じます。
コロナ騒動で、自然を求めて山へ、川へと人が集まっていると聞き、主人が何気なく『人間はやはり自然を求めるんじゃないだろうか。』と言った言葉が気にかかりました。
どれだけ文明が発達しても、どれだけ便利になっても、人間は自然の一部で、自分の一部である自然と触れることによって、元気になったり安心したりするのではないかと。
コロナがきっかけであったとしても、誰しも今まで気付かなかったことに気付けたことは大きな一歩で、自然と共にあることが大切で、自然を大切にするということが強いては自分を大切にすることになり、反対も然りで、であれば、進みに進みまくってしまった環境破壊に対して、コロナ騒動は一助になるんじゃないのかと、大阪の片隅で一人妄想に耽ってしまいます。
もっと影響力のある、有名な方がこんなことを当たり前のようにどんどん発信していけば、(もうすでに発信されているのかもしれませんが、世情に疎く・・・(^^;)
人にも、動物にも、植物にも、そして地球にも優しい時代が来るのではないかと、こんな騒動の中、不謹慎かもしれませんが想像してしまいます。
未来ある子供達へ、キレイな地球を残していきたいと、大きな夢を抱きながら。
まずは出来ることからコツコツと。