聖徳太子の存在をここ2年ほど強く感じるようになり、いずれは参拝したいと思っていた大阪府は太子町にある叡福寺。
太子町の町名そのままな聖徳太子所縁の地。
階段の頭上には南大門。
朱塗りの南大門の左右には門番の金剛力士像。
正面に見えるは聖徳太子御廟。
裏のお山が素晴らしい!
【手水舎】
コロナ禍で実感したのは、参拝時でのお清め。
コロナ禍までは、手水舎でのお清めが当たり前だと思っていましたが、お水でお清めが出来る事は当たり前のことではなくなってしまいました。
不便になって初めて気付くありがたさ。
さて、お清めも済み正面の御廟へと向かいます。
説明によると、御廟所は三廟一骨とあり、聖徳太子とその母君、そして皇后のお三方が眠られる場所になるそうです。
そして、正面に見えるは
【聖徳太子御廟】
宮内庁管轄。
太子と母后・穴穂部間人皇女、妃・膳部大郎女の三体を合葬した三骨一廟。
参拝時には知らなかったのですが、境内でこの聖徳太子御廟だけが宮内庁管轄。
なぜに?
広隆寺での参拝でも疑問でしたが、今上天皇がお召しになられた黄櫨染御袍を広隆寺の御本尊である聖徳太子立像へ下賜されるということ。
kidoki-123-kimono.hatenablog.com
色々と想像してしまいますが、分かりません(笑)
ただ、こうしてお参りに来れただけで充分です。
先頭を行くお方が、何やら怪しい動き(笑)
何かを見つけたのでしょう。
が、放っておいて私と娘は先を進みます(笑)
【浄土堂】
【太子廟窟偈】
聖徳太子が遺言の形として記された偈文。
御母・穴穂部間人が阿弥陀如来、御后・膳部郎女が勢至菩薩、太子が観世音菩薩の化身とされる。
当地が大乗の教えを説くのに最適の地であるとし、一度この御廟を参詣すれば極楽浄土へ行けるとも説かれている。
【上の御堂】
聖徳太子摂政像が祀られているそうですが、開帳はされていませんでした。
その横手に何やら面白い立札を息子と発見。
太子が黒駒に乗り、全国を行脚している道中、富士山頂に至った折、西方より五色の光を見出された場所。→直進
とあります。
こうなるとふしぎ発見チームの私と息子が行かないわけもなく、主人と娘はほっぽって二人で矢印の指す方へと進みます。
距離はさほどありませんが、暑い山中の階段を歩くこと数分。
頂上に着きました。
梵字の刻まれた石碑にぐるりと囲まれた五輪の塔がありました。
その目の前には、立派な木。
『なんて書いてあるん?』と梵字を指さし聞いてくる息子に、さすがに梵字は読めません(笑)
この一帯から五色の光が溢れ出て、この地を御墓所と決められた聖徳太子。
日本の為に、色々と尽くして下さってありがとうございました。
さて、お山を下りて境内へ。
【聖霊殿】
太子堂とも呼ばれ、聖徳太子16歳植髪等身像と南無仏太子2歳像が祀られているそうです。
【弘法大師堂】
お堂の近くに弘法大師像もありました。
少し背の高い建物は宝塔。
【宝塔】
本尊は東面に釈迦・文殊・普賢の三尊像、西面に金剛界の大日如来を安置し、4本の柱には四天王の像が描かれているそうです。
叡福寺の中で、ひときわ目立っていた大きな建造物は
【金堂】
厨子の東西南北には四天王像が配されているようで、境内に入ってからずっと感じているのが、案内板を読むたびに募る『拝観したい。』という思い。
今まであまりそんな風に思ったこともなかっただけに、自分で自分にビックリですが、聖徳太子の立像なんてちょっと想像するだけでワクワクしてしまいます。
やはりそれは、京都の広隆寺で1年に1度開帳されている、聖徳太子立像を拝観した時のあの心震える感動を覚えているからなのかもしれません。
金堂のそばに、叡福寺の古絵図の複写が設置されていました。
拝観が叶わないので、絵を見てちょっとお茶を濁しました(笑)
3月に四天王寺さんへ参拝に行ってからというものの、以前にもまして叡福寺へ行かねば感が強く、やっと念願叶ってのお参り。
やっとやっと家族でお参りに来れました。
ただし、この感動は母だけ(笑)
そりゃ、暑い日によっぽど信心深くない限りお寺にお参りだなんて、子供は喜びませんよね(^^;
さて、ここからは一山超えて久し振りの参拝。
奈良へと向かいます。
つづきます。