さて、次なる目的地へとGoogleマップの経路を元に進んでいくのですが、幹線道を外れてどんどん狭い道ばかりをグネグネと。
藤の花を横目で見ながら自転車を走らせていくと、
道の先に神社。
【等乃伎(とのき)神社】
そのまま素通りして目的地へと向かっても良かったのですが、きっとこのぐねぐね道を走らされた目的はこの神社なのだろうと参拝させて頂くことに。
早速目に入ってきたのは、めちゃくちゃ可愛い狛犬さん達。
その先にはこちらの掲示版。
漢字の羅列から御祭神が記載されているのかと思っていたのですが、どうやら歌のようです。
最後の『さやさや』の音が何とも美しく、日本が『言霊の幸わう国』であることを改めて実感します。
(ただし、子供との喧嘩中の私にそんな意識は全くありませんが(^^;)
枯野(からの)を 鹽(しほ)に焼き 其しが余り 琴に造り 掻(かき)弾ひくや
由良(ゆら)の門(と)の 門中(となか)の 海石(いくり)に 触れ立つ
なづの木の さやさや
【通釈】
枯野を焼いて塩を作り、その焼け余りの材で琴を造り弾いてみるや、由良の瀬戸の暗礁にゆらゆら揺れて立つ、水に濡れた木のように冴え冴えとした音をたてて鳴ったよ。
【語釈】
◇由良の門 紀伊半島と淡路島の間の海峡。
◇海石(いくり) 海中の岩。
◇なづの木 「《ナヅはナヅサヒのナヅ》水につかっている植物」(岩波古語辞典)。
【補記】
日本書紀巻第十。
伊豆の国から献上された高速官船「枯野」が朽ちてしまったので、天皇はなんとかこの名を後世に伝えたいと思った。群卿は協議して、枯野の船材を薪として塩を焼くことにした。焼け残った余りの材から、天皇は琴を造らせた。弾いてみると冴えた音色を出したので、上の歌を詠んだという。
【出典元:応神天皇 千人万首】
このあと境内の別の場所で気になる掲示板を見つけ写真を撮っていたのですが、先程の歌とこちらの船が関係していました。
こちらに記載されてある、仁徳天皇が造船を命じられた巨木で作られた『枯野』という船のことが気になり調べていくと、日本民話に分かりやすい記述がありました。
【日本民話】
むかしむかし、仁徳天皇の時代に大きな大きな木がありました。
あまりにも大きな木だったので、朝日が当たれば淡路島まで影を落とし、夕日が当たれば大阪にまで影を落としたそうです。
「それほど大きな木であれば、さぞや立派や船が出来るであろう」
この木の事を知った仁徳天皇は、この木を切り倒して船を作るように命じました。
その船は枯野という名前で、天皇が飲む水を淡路島の泉から運ぶのに使うのです。
それから長い年月がたちその枯野船が古くなって使えなくなると、今度は枯野船を浜辺で焼いて塩を取る事にしました。長い年月を海に浮かんでいた為、船には多くの塩が含まれていたからです。
枯野船に火をかけられると炎が天高く立ちのぼり、船は三日三晩燃え続けました。
そして燃えた跡には、塩を含んだ大量の灰が残りました。
しかしその大量の灰の中に、どうしても焼けずに残ってしまった部分がありました。
「ここだけ焼けずに残るとは、これには何かの力が込められているに違いない」
そこでその部分をよく磨いてみると、なんとそれは小さな舟の形をしていたそうです。しかし舟と言っても、人が乗れるほど大きくありません。せいぜい、小さな子どもが乗るくらいです。
「この舟形の木を、何かに使えないだろうか?」
そこでその舟形の木に弦をはって琴にしてみたところ、その琴は七つの里をこえて音がひびく素晴らしい楽器になったということです。
【出典元:http://hukumusume.com/douwa/i/minwa/08/16c.html】
巨木の大きさは、朝日を浴びると淡路島にまで影が届き、夕日を浴びると大阪八尾市にある高安山にまで影は及んだとあります。
更に、枯野は天皇の飲料水を淡路島から運んだと記述があり、淡路島にはその伝承地とされる清水があるようです。
仁徳天皇の御代、菟寸河(とのきがわ)の西には一本の高木があった。この木で造った船を枯野と名づけ、この船を使って朝夕に淡路島の清水を酌み、天皇の飲料水としたとある。淡路島に存在する泉。安寧記にて言及される「淡道の御井宮」との関係を指摘する説がある。伝承地としては兵庫県淡路市佐野小井の「御井の清水」がある。
【出典元:淡道島の寒泉(その2) – 國學院大學 古典文化学事業】
何年か越しで参拝を願っている神社が淡路島にあり、これもタイミングかもしれません。
更には、造船からの繋がりで舟木氏、そこからまたしても淡路島へと繋がり、繋がる時はどんどん繋がります。
そんなことは参拝時には全く分からず、可愛い狛犬さんがまたしても見えてきた参道で一人ご満悦(笑)
ほら可愛い❤
こちらの狛犬さん達はにこやかではありませんが、それもそのはず祓岩をお守りされている狛犬さん。
気を引き締めて、祓って頂きました。
祓岩の左手にはご覧のような立派な木が控えておられます。
石と木。
イシトキ。
イシキ!
意識!!
やっと気付いた!
やはり木と石(岩)はセット。
これはこうして文字にせねば分からなかった事で、木と岩が何年もの間ずーっと気になっていましたがようやく今ここで分かりました。
固い頭のままでは気付きません。
もっと意識を緩めて、柔軟に、柔らかに。
【縁起】
仁徳天皇のお名前が出てくるくらいですので歴史は相当古く、この地は八尾市と奈良の県境にある高安山から登る夏至の朝日を祀る場所であり、そして巨木信仰から古代太陽信仰の聖地だったようです。
ふと等乃伎神社の位置関係が気になり、調べていたところ気になった地名がありました。
富木、高石、鴨公園、羽衣。
漢字から連想されるのは、豊かな木々、大きな高い石、そして賀茂氏。
そして羽衣の文字がどうにも気になり調べていくと、『賀茂旧記』という文献にあたり、下記のような記載がありました。
玉依姫の夢に別雷神が「天羽衣及び天羽裳を用意し、火を焚いて鉾を祭り、走り馬を飾り、奥山の榊を取りて阿礼に立て、種々の彩色を尽くし、葵や楓の蔓を造り、厳かに飾って待てば、吾は来るだろう」
この付近一帯は、賀茂氏と縁の深い土地なのでしょうか。
【拝殿】
またしても、狛犬さんがひょっこり顔を出されています。
それにしても等乃伎神社は狛犬さんのワンダーランド。
この地は殿来連(とのきのむらじ)という、古代祭祀を司る中臣氏の一族が天屋根命をお祀りされたのが始まりのようです。
拝殿から振り返ると、ご覧の通り狛犬さんの数もさることながら圧倒的な存在感の木々の豊かさに驚かされます。
拝殿右手には稲荷社。
ちょうどおじさんが一人でお掃除されており、先程参拝した信太森葛葉稲荷神社でも『掃いても掃いてもこの時期は・・・。』とおっしゃっていましたが、ここ等乃伎神社も同様で掃いても掃いても風を受けて落ちてくる枯葉と格闘されておりました。
そんな枯葉を落としておじさんと遊んでいる主は、稲荷社のそばの立派な木。
足元には枯葉がわんさかと。
更にはそのお隣にもわんさかの大元である立派な木。
そりゃ、掃いても掃いても。。。ですよね(^^;
木の側には祓宮があり、御祭神は造花三神の一柱である天御中主命。
振り返ると、この日はなかなか強い日差しでしたが、ちょうど木々が太陽を遮る木陰となり心地良い空間。
さて、参拝前から気になって気になって仕方がなかったこちらの授与所。
軒先に所狭しと並べられた授与品はまるで商店街かのような賑やかさ。
そんな数あるお守りの中で、今の息子にピッタリのお守りを見つけてしまい頂いて参りました。
何事も諦めず、どんなにバカにされようとも、どんなにくじけそうなっても、決めたことは諦めずにやりきる気持ちが大切。
息子よ、頑張れ!
ふと横を見ると先程まではいなかった猫の姿が。
私の足音に気付いたのか一瞬こちらを向いてくれましたが、すぐにつまらなさそうにあちらの方へ(笑)
御朱印は数種あり、春の桜をイメージしてピンク色の御朱印を頂いて参りました。
日付は自身で入れる必要があり、宮司さんのお話しから右手はご病気で少し不自由されているとのことでした。
ふらりと参拝に伺った神社でしたが、あとになってこうして文字を起し調べていくことで大きな気付きがあり、やはり気になったことは自分で調べて考えて、落とし込まなければ分からないということ。
偶然は、偶然を装っての必然。
さて、ここからあと少し自転車を走らせて最終目的地へ。
つづきます!