シロンプトンでパンとお参りと

ブロンプトン(白)でふらりとお参り、そしてパン。

【大阪/浪速区】今宮戎神社

一心寺の後、せっかくここまで来たのだからと耳にしたことはあっても、参拝したことのなかった今宮戎神社へ。

 

今宮戎神社

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御祭神は、天照皇大神事代主命素戔嗚尊・月読尊・稚日女尊
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御祭神の一柱、稚日女尊様のお名前は神社であまりお目にかかることはありませんが、生田神社の御祭神。

先月時間が足りず断念した生田神社への参拝。

次回に繋がるとありがたしです。

 

今宮戎神社は都会の中に突如として現れる神社。

f:id:roy-7303-pkbs:20220603152531j:image『後ろの高層マンションにも負けへんでー』と言わんばかりの狛犬さん。
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こちらは打って変わって柔和な顔の狛犬さん。
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何だか妙に色っぽく感じるのは私だけでしょうか。

 

本殿に飾られている鯛の絵。
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一瞬、『魚拓みたい・・・。』と思ってしまいましたが、えべっさんは左脇に鯛、右手に釣り竿のお姿。

だからなのかと母と納得。

 

都会の中の今宮戎神社ですが、手水舎の周りの木々はとても豊か。
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手水舎のそばには、福笹に付ける授与品の説明書きがありました。
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福笹にたくさんぶら下げるだけで、テンションが上がりそうな可愛い授与品達。

打ち出の小槌を一瞬頂こうかと迷いましたが、無駄に振って遊んでいる私と息子の絵しか想像できず、ここはグッと堪えました。(1,500円)

 

阿波野青畝の句碑
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奈良県に生まれ、大阪そして西宮へ移住され1992年に逝去。

西宮と言えば言わずと知れた西宮戎の西宮神社

今宮戎神社と同じ戎ですね(^^)

 

阿波野青畝という方を初めて知りましたが、俳句雑誌ホトトギスの昭和初期の四S(山口誓子、高野素十、水原秋桜子)のお一人だそうで、高浜虚子に師事されていたとのこと。

この辺りは、国語の教科書で習ったような気がします。

 

さて、想像していた以上に広くない境内一度境内を出たものの、朱塗りの建物が見えて別の参道口から境内へ。

 

朱塗りの鳥居はないものの【稲荷社】
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この稲荷社から見た本殿がこれがたいそう素晴らしく、表からの参拝だけで帰らずに良かったと母と同意見。
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本殿の後方からもお参りできるようになっており、個人的には表よりもこちらの方がとても気持ちが良くスッキリとお参り出来る感じがしました。
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後方とは思えない立派なしめ縄です。
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鯛の印が可愛い今宮戎神社御朱印

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さてこの後は、今宮戎神社出てすぐ後方にある神社へと。

 

つづきます。

【大阪/天王寺区】一心寺、と前多忠朝のお墓

色々な偶然が重なって母と一緒にお参りさせて頂くことになった大阪市天王寺区にある一心寺。

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後ろに見える高い高いビルはアベノハルカス。
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のっけからビックリしました!

この近代的な美術館のようにも見える入り口が一心寺の仁王門。
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【大本堂】
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その左手にある納骨堂でお線香と蝋燭をお供え。

今回の目的はこれでおしまい。

 

ここからは、せっかく来たのだからと境内を散策。

寺務所にいる母を見つけると、何やら寺務所の方を話している模様。

一心寺は禁酒祈願が出来るお寺とのことで、そう言えば一心寺に母と参拝する話しになった際、HPで酒封じの神様を知り、冗談半分で父の酒を封じ込めたら良いと話しをしていたことを思い出しました。

 

さて、そんな酒封じの神様がいらっしゃる場所へと寺務所の方の説明通りに境内を進むと立派な五輪の塔が見えてきました。
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【酒封じ祈願】

本多出雲守忠朝は、徳川家康公四天王の一人といわれた本多忠勝の第ニ子で、関ヶ原の合戦に武功をあげ大多喜五万石に封ぜられていましたが酒を過したため大坂夏の陣(1615年)において討ち死にしました。死に臨んで深く酒弊を悔い死後は酒のために身を誤るものを助けんと誓って瞑目したと伝えられています。爾来、酒封じの神として酒に苦しむ当人や家族の多数参拝するところとなり、酒弊の除滅に信を得ています。墓碑周辺のシャモジは参拝者による断酒祈願。墓碑は、元和2年(1616年)に建立されたものです。

 

本多忠朝と言えば、先月お参りに行った野崎観音で知った徳川四天王の一人、本田忠勝の御子息。

shironpton.hatenablog.com

 

まさか、一心寺の境内にお墓があったとは知らずこれも何かのご縁。

母は父の禁酒とまでは行かずとも、少しお酒の量が減るとありがたし、のような内容を祈願用のしゃもじにしたためておりました。

 

度が過ぎる好きなモノは、自身の苦しみとなります。

私もエラそうな事を言えた身分ではありませんが、今勉強していることと繋がるところが多く、いかに中庸にするかということがとても大事だと感じました。

 

御朱印を頂く場所は、寺務所とは別の専用の場所がありました。
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頂いた御朱印

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日想観とは、西方に沈みゆく太陽に向かって念仏を称え、極楽往生を願う観無量寿経というお経に説かれている念仏修行の一つだそうで、御朱印を書いて下さった寺務所の女性の方が教えて下さいました。

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そばにあった書がとても気になり、寺務所の方の許可を得て写真を撮らせていただきました。
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『一心専念』

 

寺務所の方から教えて頂いたのですが、こちらの書は知恩院 大僧正 明譽によるものだとのこと。

知恩院は浄土宗の総本山。

一心寺は、その浄土宗の開祖法然上人が日観想を修せられた草庵が発祥の謂れ。

 

そして一心寺と知恩院の繋がりはまだありました。

関ヶ原の戦いがあった年、徳川家康公の第8男仙千代君が夭折し、一心寺で葬儀が営まれましたが、導師を務めたのは時の住職で、家康公と同郷三河の僧本誉存牟(ほんよぞんむ)上人でした。以来、家康公との結びつきが強く、慶長19年(1614)の大坂冬の陣では家康公の本陣が当地におかれました。 

【出典元:一心寺 歴史 | お骨佛の寺・納骨とおせがきの寺 一心寺

 

また徳川家(松平家)が三河時代から帰依していた浄土宗の総本山である京都の知恩院に、定例により分骨され宝塔に納められた。

【出典元:千姫 - Wikipedia

 

知恩院の寺紋は丸に三つ葉葵。

丸に三つ葉葵は徳川家の家紋。

 

野崎観音さんへお参りさせて頂いてから、今まであまりご縁を感じたことのなかった徳川家のお名前をよく目にするようになりました。

必要であればこの流れは続いていくのでしょうし、私には全くどうなることやら分かりませんがいただいたご縁はありがたく、お参りと気持ちばかりのお賽銭、授与品などを頂くことでお返しできればと思っています。

 

今回一心寺さんではお香をいただきました。

お試し用のお香があり、その場で火をつけて下さいました。

我が家に仏間はありませんが、手を合わせる時に色々なお香があると楽しくなります。

 

知恩院へは三年前に参拝させて頂いていたようで、月日の流れるのは早く、ただこうして色々と繋がってくるとありがたい気持ちでいっぱいになります。

tonjil.hatenablog.com

 

さて、一心寺を後にし普段は来ることのない場所に来たのだからと付近の神社へとお参りです。

 

つづきます。

【京都/亀岡】篠村八幡宮で後醍醐天皇

ここ最近、亀岡とご縁のある友達と一緒に亀岡へ。

今回の目的は参拝でなかったのですが、空き時間に少し気になった神社へとお参り。

 

【篠村八幡宮

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御祭神は、誉田別命応神天皇)とその父君仲哀天皇、と母君であられる神功皇后

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社伝や本殿の棟札によれば、延久3年(1071年)に勅宣によって源頼義が誉田八幡宮大阪府羽曳野市)から勧請し創建したとされる

延久4年(1072年)5月13日付の頼義の社領寄進状も現存する。篠村の荘園は藤原氏によって開かれたものであったが、いつの頃からか源氏が相伝することになり、その荘園に勧請されたものとされる。

当地は足利高氏(尊氏)が鎌倉幕府打倒の挙兵をした地として知られ、亀岡市指定史跡にも指定されている。高氏は元弘3年(1333年)4月29日に篠村八幡宮に戦勝祈願の願文を奉じ10日間滞在したのち、六波羅探題を滅ぼして建武中興の礎を築いた。また後醍醐天皇と決別したのち、建武3年(1336年)1月30日に京都攻防戦で敗れたため、2月1日まで篠村八幡宮で敗残の味方の兵を集めるとともに社領を寄進して再起祈願を行なっている。そして尊氏は九州へ逃れ、体勢を立て直すと京都に戻り室町幕府を開くこととなる。

【出典元:篠村八幡宮 - Wikipedia

 

篠村八幡宮源頼義源頼朝から数えて5代前)が羽曳野市の誉田八幡宮から勧請してきたとあり、近々羽曳野市に行く予定がありお得意のグーグルマップで検索。

 

ビンゴ!

当日、応神天皇陵へは参拝予定にしており偶然ではなく必然の流れ。

 

更に、ここ最近頻繁に目にする楠木家と後醍醐天皇

篠村八幡宮の地は、後醍醐天皇と袂を分かった足利尊氏が祈願した神社。

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更に、のちほど御朱印を頂いた際に一緒に付けて下さった由緒書きの一文を見て目を疑いました。

 

源頼義の長子は石清水八幡宮元服させて八幡太郎義家・・・』

 

とあり、長子についてのみの記載でしたがこの名前にとても憶えがあり、思い出したのが以前参拝した滋賀県大津市新羅善神堂。

 

shironpton.hatenablog.com

 

ブログ記事に、

 

『次男は加茂神社で元服させた加茂二郎義綱、そして三男の源義光新羅善神堂の神前にて元服

 

とあり、まんざら私の記憶も捨てたもんではありません(笑)

 

そして、まだまだ続きがあります。

先日訪れたばかりの聖徳太子の御廟所叡福寺への道中、27号線を通ったのですがどうやら源頼義のお墓近くを通っていたようです。

その際、気になった神社があり見えた幟に確か『河内源氏発祥の地』とあったような。

調べてみると、壷井権現社とあり同じ境内に壷井八幡宮

 

壷井八幡宮、更には鶴岡八幡宮は晩年源頼義河内源氏氏神石清水八幡宮から勧請されたと今初めて知り、やはり偶然はないのだと感じます。

 

これはまた是非とも参拝に行かなければなりません。

 

由緒書きだけで随分と先に進まないブログですが(笑)、もちろん当日はそんなことは全く知らず、『ご縁をいただけてありがたし』と参拝をさせて頂いていただけ。

 

全ては必然の流れ。

そんなことに気付けるようになったのも参拝を重ねてきたからこそ。

 

さて、記事を起しながらちょっと興奮気味ですが境内に戻ります。

 

外観からは想像もつかなかった参道。

見事な天然鳥居。

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その天然鳥居を過ぎ直角へ左折すると見えてきました。
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【手水舎】
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そばにある【祓戸社】
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御祭神は、瀬織津姫神、速秋津比売神気吹戸主神、速佐須良比売神の祓戸四神

 

篠村八幡宮で頂いた由緒書きに記載がありましたが、祓戸社がある神社はそう多くはないそうです。

 

【本殿】
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その左手に東向きに祀られている【稲荷神社】
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【矢塚】
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側にある案内文によると、足利尊氏が戦勝祈願の為鏑矢を奉納したところ、他の武将達も奉納し矢が塚のようにうず高く積みあげられたとありました。

 

そして、境内に入ってからずっと気になっていたこちらの木。f:id:roy-7303-pkbs:20220531202837j:image

案内板にはツブラジイとあります。

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この木の捩じれっぷりと言ったら、圧巻の佇まい。
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少し離れた場所から見てもこの立ち姿。
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美しき。
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本殿右手には【乾疫神社】
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御祭神は、建速須佐之男神、大己貴神少彦名神出雲神話を代表する神々様です。

 

乾疫神社は、最古の疫神社とされ、延喜式によれば、平安京の4隅と、山城と他国との主要6街道の国境に計10社ありましたが、現在、今宮神社、石清水八幡宮とここ篠村八幡宮に現存しています。

 

【出典元】

www.hozugawakudari.jp

 

京都の今宮神社と言えば、昨年お参りさせて頂いたばかり。

shironpton.hatenablog.com

 

リンクを貼ろうと自身のブログを見ると、ちょうど目に入った記事が今宮神社でした。

(ギャッ!)

 

乾疫神社の『乾』は方角では北西を意味するようで、京の都から見てここ乾疫神社は北西にあたります。

 

そばには小宮社。
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その裏手に『旗立楊 左手奥50メートル』と案内板があり、鎮守の杜を散策がてら向かってみることに。
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先程お参りしていた乾疫神社のそばを通って向かいます。
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この立派な楊の元で、後醍醐天皇の討伐に向けて足利尊氏が旗揚げされたようです。
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近々、後醍醐天皇所縁の吉野へのお参りを計画している私としては胸中複雑ですが、何事も見る角度が違えば見えるものも変わります。

 

両方を知ることはとても大事。

その両方を知って自分はどう考え、行動するのか。

どちらかを排斥するのではなく、どちらも和合して統合できればとは甘い考え方でしょうか。


こちらは社務所裏手の鎮守の杜。
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小振りながらも、すっくと天に伸びる姿が印象的で、そばに近付いてみると亀岡市の名木、ナナミノキとありました。
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近くには二股の木もあって楽しい空間。
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この日は5月と言えどもな夏日でしたが、いよいよ紫陽花の綺麗な時期。
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数年前の私であれば、今回のようなお参りは用事の合間の参拝で終わっていたのかもしれず、随分と当初の頃に比べて参拝の仕方も変わってきました。

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日々、与えられたことを淡々と続けていくと次の扉が開けていくようで、この日、これからの私にとって進むべき方向性が見えてきました。

 

一日たりとも無駄には出来ません。

時間の使い方の見直し、年内残り6カ月に向けての目標なんぞを今一度自分に落とし込んで、自分で自分のお尻に火をつける作戦です(笑)

 

時間は無限ではありませんでした。

今更ながらに当たり前のことに気付いた今回の亀岡訪問。

 

連れて行ってくれた友達に感謝です☆

【大阪/高槻市】日本三大三島神社 三島鴨神社から続く三島と鴨

自転車でのお参りに最適な曇天。

今回は、ふと思いつきで高槻市にある三島一族を巡るお参り。

三島鴨神社→溝咋神社→鴨神社

 

一社ごとのお参りはあっても、一日でお参りするのは初めての試み。

三島鴨神社へは、家族と一緒にお参りに行って以来の再訪です。

shironpton.hatenablog.com

 

高槻市にある三島鴨神社は、大山祇神社三島大社の合わせて日本三大三島神社の一つとして数えられており、三島神社の発祥とされている神社。

tonjil.hatenablog.com

 

今回、あろうことか携帯電話を忘れてしまい、写真無し、Googleマップなしのお参り。

地図が無いお陰で、目先の情報に囚われることなく自分の感覚でお参りが出来たような気がします。

ただ、知っている土地であるからこそどうにかなったというだけで、やっぱり私のお参りにGoogleマップは必須です(笑)

 

さて、お参りの目的の三島鴨神社の境内でふと浮かんだのは、三島鴨神社の御祭神、事代主神の御妃にあたる玉櫛媛命がお祀りされている溝咋神社

こちらにもお参りに行った方が良いような気がし、ここからは茨木市へ。

shironpton.hatenablog.com

 

前回のお参り時は、大阪北部地震(平成30年)の爪痕がくっきりと残っており、傾いた境内社の周りにはロープが張られ、とても痛々しい状況でした。

 

あれから4年。

境内社はすっかり綺麗に生まれ変わって、以前の少し暗かった境内とは打って変わっての雰囲気。

寄付をされた方のお名前がズラリと並んでおり(府外からも!)、とても大切にされている神社なのだと思います。

 

さて境内に入ろうと自転車を停めていると、そんな私の自転車を見て『ちっさなるねー!』と声をかけて下さったおばあちゃんと少しお喋り。

右手に杖を持たれていることから、歩くのに少し時間がかかるような感じでしたが、それでも『こうして自分で歩けるうちはこれが私の仕事。』とお茶目に笑って立ち去って行かれたのが印象的でした。

 

目の前のことに集中して取り組む。

 

先日、お寺の方と話していても同様のことをおっしゃっておられて、とても心に残りました。

日々の当たり前のことはついつい適当に、いい加減にしてしまいがちですが、今を集中して生きること。

お二人から教えていただきました。

 

さて、溝咋神社を後にし、目指すは高槻市にある鴨神社。

shironpton.hatenablog.com

 

のはずだったのですが、道中住宅街に遠目から見ても分かるとても立派な木を見つけ、そうなると素通りできるわけもなく、その木のある方向へ。

樹齢900年にもなるクスノキはあいにくと上部が枯れており、さてその地面の下はどうなっているのかと心配ではありますが、茨木市の指定保存樹、大阪府の天然記念物に指定されているそうです。

 

画像は下記、Wikipediaよりお借りしました。

須賀神社 (茨木市) - Wikipedia

 

御祭神の素戔嗚尊様は溝咋神社の御祭神、玉櫛媛命の祖となる神様です。

偶然にもお参りさせて頂きましたが、こうした偶然の積み重ねが線になるようです。

 

さて、高槻市の三島鴨神社茨木市溝咋神社茨木市須賀神社ときて、最後にお参りに伺ったのは高槻市にある鴨神社。

 

三島鴨神社と共に三島神社の発祥とされておりますが、難しいことは私には分かりません。

ただ、ここ高槻市にそのような歴史のある神社が今なお存在しているということが、とてもありがたく感じます。

今日まで繋いで下さった方々のお蔭でお参りさせて頂けることだけは、私が分かる本当のことです。

 

後日、訪れた先の橿原神宮で御祭神に神武天皇の皇后であられる媛蹈鞴五十鈴媛様のお名前を見つけた時にはビックリしました。

 

溝咋神社主祭神は媛蹈鞴五十鈴媛様。

 

ありがたいご縁に感謝です☆

【奈良県/橿原市】橿原神宮、長山稲荷神社

気付けば前回のお参りより3年も過ぎていた橿原神宮

tonjil.hatenablog.com

 

建国記念日は、それはそれはな人の数に圧倒されましたが、自国の創立記念日に初代天皇のお祀りされている神社へと参拝される姿は、日本人として誇らしい気分になりました。

 

色々な考え方がありますし、何が良くて何がダメとかではないのですが、自分の国を誇りに思いたいと、参拝を重ねるにつれ感じます。

せっかく日本人に生れてきたのですから、日本人を楽しんで日本のことを好きになって、日本の為に尽くしたいと思います。

 

橿原神宮 第一鳥居】

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『あっついわー。後でコンビニでアイス買ってな!』とプリプリしている息子(笑)
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前方二人の静チーム二人は、『早く日蔭に行こう。』と冷静な判断(笑)

私は久し振りの参拝で、ちょっと緊張。
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ウン十年前、初めて参拝に来た時にも感じたのですが、橿原神宮の境内はとても清々しく、明治神宮のような感じがします。
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参道から第二鳥居、第一鳥居を望むの図。
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今まで橿原神宮へは3度参拝していますが、末社を訪れるのは今回が初めて。

 

【長山稲荷神社】
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今気付きましたが、例祭が娘の誕生日と同じ。

娘とご縁をいただけていれば嬉しい。
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鳥居の周りの木々はとても静かで、厳か。
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なんやかんやと言いつつも、こうして月に一度でも家族でお参り出来ることがとてもありがたく、親として子供が成人するまでの間、出来る事は限られはしますが(それは私の考えや力量によるところも大いにあります。)、『見えないものがある』『日本人としての感性』、みたいなものを参拝を通して伝えることが出来ればと思います。
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木の根に釘付け!
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手水舎のお水は使用できませんでした。
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ピリッとした空気の中ご挨拶。
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私達家族の前後に人は全くいませんでしたが、参道を戻る頃には何組かのグループが参拝に。

ひっそりとした長山稲荷神社でしたが、次回の参拝時もお参りさせて頂こうと思います。

畝傍山の麓にありますし、同じ稲荷神社で言えば、伏見稲荷大社と稲荷山のような感じがしました。

お山を拝する感じです。

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橿原神宮の御祭神は言わずと知れた初代天皇神武天皇

そして皇后の媛蹈鞴五十鈴媛命

 

またしても偶然なのかどうなのか、橿原神宮の前々日に久し振りに一人自転車で参拝した神社の主祭神媛蹈鞴五十鈴媛命と、その母君の玉櫛媛命 でした。

 

点と点が繋がって、果たしてどこに行きつくのやら皆目見当もつきませんが、これもご縁でしょう。

ご縁があれば参拝できるでしょうし、ご縁がなければその時は参拝出来ないでしょうし、私一人の人間がどうこう出来る事ではないのかもしれません。

 

分からないことは、分からない。

分かる必要が来れば、いずれ分かる日が来る。

 

ジタバタ足掻いて、自分の頭で考えて思うようにコントロールしたいのですが、そしてそういう生き方をずっとしてきたのですが、参拝をするにつれ、『もう、分からん!』『お手上げ。降参。』な状態で、いやはや困りました。

 

『分からないことを分かるまで追求して分かるようになる。』

 

が得意分野だっただけに、これは辛い(笑)

 

数年前の退職時に、喪失感しかなかったタイミングで『昔から神社が好きだったから。』と何の気なしに始めたお参り。

気付けば気付きをいただき、自分と対面することが激増しました。

 

今、ふと気付きましたが、出したから入ってきたのかもしれません。

 

大好きだった仕事。

私の得意分野の働くこと。

 

私にとって、とても大事なものとサヨナラしたら、そのポッカリ空いた大きな穴にお参りがすっぽり収まり、私にとって無くてはならないものになりました。

 

自分で選んだ道。

後悔なきように、日々精進して参りたいと思います。

 

そんなピリッとした気分に立ち帰れた橿原神宮

ご縁をいただき感謝です☆

 

【大阪/太子町】聖徳太子御廟所 叡福寺

聖徳太子の存在をここ2年ほど強く感じるようになり、いずれは参拝したいと思っていた大阪府は太子町にある叡福寺。

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太子町の町名そのままな聖徳太子所縁の地。
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階段の頭上には南大門。
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朱塗りの南大門の左右には門番の金剛力士像。
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正面に見えるは聖徳太子御廟。
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裏のお山が素晴らしい!

 

【手水舎】
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コロナ禍で実感したのは、参拝時でのお清め。

コロナ禍までは、手水舎でのお清めが当たり前だと思っていましたが、お水でお清めが出来る事は当たり前のことではなくなってしまいました。

不便になって初めて気付くありがたさ。

 

さて、お清めも済み正面の御廟へと向かいます。
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説明によると、御廟所は三廟一骨とあり、聖徳太子とその母君、そして皇后のお三方が眠られる場所になるそうです。
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持国天

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増長天
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そして、正面に見えるは

聖徳太子御廟】
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宮内庁管轄。

太子と母后・穴穂部間人皇女、妃・膳部大郎女の三体を合葬した三骨一廟。

 

参拝時には知らなかったのですが、境内でこの聖徳太子御廟だけが宮内庁管轄。

 

なぜに?

 

広隆寺での参拝でも疑問でしたが、今上天皇がお召しになられた黄櫨染御袍を広隆寺の御本尊である聖徳太子立像へ下賜されるということ。

kidoki-123-kimono.hatenablog.com


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色々と想像してしまいますが、分かりません(笑)

 

ただ、こうしてお参りに来れただけで充分です。
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先頭を行くお方が、何やら怪しい動き(笑)
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何かを見つけたのでしょう。

が、放っておいて私と娘は先を進みます(笑)

 

【浄土堂】
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【太子廟窟偈】
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聖徳太子が遺言の形として記された偈文。

御母・穴穂部間人が阿弥陀如来、御后・膳部郎女が勢至菩薩、太子が観世音菩薩の化身とされる。

当地が大乗の教えを説くのに最適の地であるとし、一度この御廟を参詣すれば極楽浄土へ行けるとも説かれている。

 

【上の御堂】
聖徳太子摂政像が祀られているそうですが、開帳はされていませんでした。
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その横手に何やら面白い立札を息子と発見。
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太子が黒駒に乗り、全国を行脚している道中、富士山頂に至った折、西方より五色の光を見出された場所。→直進

 

とあります。

こうなるとふしぎ発見チームの私と息子が行かないわけもなく、主人と娘はほっぽって二人で矢印の指す方へと進みます。

距離はさほどありませんが、暑い山中の階段を歩くこと数分。

頂上に着きました。
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梵字の刻まれた石碑にぐるりと囲まれた五輪の塔がありました。

その目の前には、立派な木。
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『なんて書いてあるん?』と梵字を指さし聞いてくる息子に、さすがに梵字は読めません(笑)

この一帯から五色の光が溢れ出て、この地を御墓所と決められた聖徳太子

日本の為に、色々と尽くして下さってありがとうございました。

 

さて、お山を下りて境内へ。

 

聖霊殿】

太子堂とも呼ばれ、聖徳太子16歳植髪等身像と南無仏太子2歳像が祀られているそうです。
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そして、聖徳太子といえばの空海さん。

弘法大師堂】
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お堂の近くに弘法大師像もありました。
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少し背の高い建物は宝塔。
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【宝塔】

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本尊は東面に釈迦・文殊・普賢の三尊像、西面に金剛界大日如来を安置し、4本の柱には四天王の像が描かれているそうです。

 

叡福寺の中で、ひときわ目立っていた大きな建造物は

【金堂】

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御本尊は如意輪観世音菩薩とあり、脇待に不動明王愛染明王

厨子の東西南北には四天王像が配されているようで、境内に入ってからずっと感じているのが、案内板を読むたびに募る『拝観したい。』という思い。

今まであまりそんな風に思ったこともなかっただけに、自分で自分にビックリですが、聖徳太子の立像なんてちょっと想像するだけでワクワクしてしまいます。

やはりそれは、京都の広隆寺で1年に1度開帳されている、聖徳太子立像を拝観した時のあの心震える感動を覚えているからなのかもしれません。

 

金堂のそばに、叡福寺の古絵図の複写が設置されていました。
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拝観が叶わないので、絵を見てちょっとお茶を濁しました(笑)

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3月に四天王寺さんへ参拝に行ってからというものの、以前にもまして叡福寺へ行かねば感が強く、やっと念願叶ってのお参り。

shironpton.hatenablog.com

 

やっとやっと家族でお参りに来れました。

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ただし、この感動は母だけ(笑)

そりゃ、暑い日によっぽど信心深くない限りお寺にお参りだなんて、子供は喜びませんよね(^^;

 

さて、ここからは一山超えて久し振りの参拝。

奈良へと向かいます。

 

つづきます。

【大阪/堺市】仁徳天皇陵と、生石神社の竜山石

以前から娘が行きたいと言っていた仁徳天皇陵

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正面から見ると他の古墳同様、大きさはあまり分からないのですが日本一の古墳。

世界遺産仁徳天皇陵
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仁徳天皇と言えば、

 

『民の竈から火が出ていない』と、3年もの間税を免除し、

『民の生活が豊かになるまでは』と、着るものも食べるものも倹約され、その間天皇のお住まいは寂れる一方。

 

宮殿の屋根の茅さえ葺き替えず、雨漏りする箇所もあったとか。

その後3年を経て、再び高い山に登り民の様子を見て呼んだとされた歌が

 

『高き屋に 登りて見れば けむり立つ 民のかまどは にぎはひにけり』

 

『人の上に立つ者は、民の生活が潤ってこそ』と、思いはしても、口にすることは出来ても、なかなか行動に移すことは出来る事ではありません。

 

この話を思い出すたびに、とても慈悲深い仁徳天皇の心を側に感じるような気がします。
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さて、そんなしっとりした気分とは打って変わっての5月といえどもなかなかな夏日。

そんな暑い最中、ボランティアガイドの方が『暑いから手短に話しますね』と、色々とお話しして下さいました。

 

印象的だった話しとして、

 

・そもそも、仁徳天皇陵とされているが実際に掘り返して調査したわけではなく、宮内庁古事記・日本書式・延喜式の史実を元に、そうであろうと決定したとのこと。

 

のっけから、『えっ!?』です(笑)

単に私の勉強不足なのかもしれませんが、調査した上での決定事項だと思っていただけに最初の説明で面食らいました。

 

・明治時代に古墳の一カ所が崩れ落ち、その際修復現場に絵師が同行し石室のある内部の詳細を初めて絵に残したそうで、ただ、それ以降立ち入ることが出来ず詳細は不明のままとのこと。

 

その他諸々は、『是非、仁徳天皇陵そばにある堺市博物館で!』とのボランティアの方の一言で、自転車博物館に向かう男子チームと分かれて娘と二人行って来ました。

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博物館の中では、子供が楽しむであろうクイズを張り切って母が解き、そのお陰で展示物を今まで観たことがないくらいに隅々まで確認。

勉強になりました(笑)

その後、上映時間に間に合うよう足早に博物館を移動→ちょっと眠い目をこすりつつ20分の上映時間の後半部分で目が覚めました。

 

仁徳天皇陵の石棺の材料は竜山石』

 

竜山石といえば、3月に参拝した兵庫県高砂市にある生石神社。

shironpton.hatenablog.com

 

石宝殿ともいわれる、大きな岩が御神体の神社です。

 

その御神体の岩は竜山石。

そして、生石神社の周りは竜山石が採れる採石場

古代から1700年もの間、今なお採石出来る国内唯一の場所。

 

竜山石について|兵庫県高砂市の竜山石を主とした石材の加工・販売なら【松下石材店】 | 株式会社 松下石材店

 

竜山石は古墳の石棺に使用されていたことから、『大王の石』とも呼ばれているそうです。

 

それにしても、まさか堺市博物館で兵庫県高砂市に繋がろうとは。

娘が行きたいと言わなければ仁徳天皇陵に行くこともなく、ただただありがたし。

 

さて、この後は私の行きたかった場所へ。

堺市から一路太子町へ

 

つづきます。